2012年12月18日火曜日

南の島の、全天候型タープ・ビバーグ

 雨や風はもちろん、雷の落ちる中でも、タープの下で焚き火を熾して、温かいラム酒入りミルクティーを楽しんでいる。
 無人島では、タープを斜めに張って雨水をカヤックのシーソックスに溜め込み、有り余る雨水でお天道様の照りつける中、水風呂だって楽しめるのだ。その後は日中の灼熱太陽パワーで、夕方には暖かい温泉の湯加減も味わえる一石二鳥の天然風呂なのである。
 タープをたたく雨音のなかで、漕ぎ疲れた身体を横たえ、ウトウトと眠りにつく事の至福感は、これまたシーソックス天然風呂に、勝るとも劣らない心地よさである。
 寒い季節の砂浜で、雨が降り、ときおり風に吹かれる。小さな焚き火を絶えることなく燃やしながら、お湯を沸かしつづけ、簡単な温かい飲み物や食事をとる。
 いつしか雨は上がり、風が止み、暖かい太陽が雲の切れ間から顔を出す。陽の暖かな温もり、そのありがたさ。
 南の島の、全天候型タープ・ビバーグの楽しさ、面白さ。 
 これだから「無人島への脱走」は ヤメられない。


嵐の中で


 10年前の夏、奄美大島の南部・瀬戸内町のヤドリ浜で台風上陸のチャンスを待っていた。予報では比較的小さめの台風で、奄美直撃のコースを通過するとの事だった。


 通過2日前からヤドリ浜キャンプ場で、シュロの木にカヤックをロープで縛り、それを風よけにしてすぐ脇にタープを張った。手首ほどの太さもある木の枝で60~70cmほどのペグを仕立て、芝に斜めに打ち込みタープとカヤックをガッチリと固定し、台風上陸に備えた。
 実際には100km手前を台風は北上し、吐噶喇(とから)を暴風域に九州へと駆け上がっていった。とはいえ、台風である。大島海峡の太平洋側入り口に当たるヤドリ浜沖は、30~35mの強風と浪高10mの外洋のウネリが吹き荒れていた。
  台風通過のまる2日、暴風雨の中、タープをたたく雨音のドラミングと、木々と電線の風切り音の凄まじい、ただ笑うしかない世界だった。インナーメッシュの中は、タープの星空の様な小さな穴のいたる所から、シャワーのように雨が吹き込みビショビショになった。雨水が溜まるとバスタオルやカヤックのビルジポンプとスポンジで排水作業に精を出しつつ、こんな嵐の中でタープ・キャンプしているバカは他に居ないだろうなと想うと、ただただおかしくて笑いがしばらく止まらなかった。雨が止むとここぞとばかりに、ただひたすら眠り込むのだった。
 そして3日目の朝、アカショウビンの鳴き声に始まり、山鳩の鳴く声と小鳥のさえずり、カラスの声、そして最後は蝉(セミ)の大合唱に起こされた。
 タープから出ると、アダンの向こう、海側から聞こえるズドド~ン、ズドド~ンという波音の響きにおどろき、あわてて浜へと駆け下りていった。
 10mほどもある外洋のデッカいウネリが、サンゴのリーフ際で4~5mの荒波となって崩れ落ちているのである。
 その美しさの感動のあまり、2時間ばかり波景色に見入ったあと、7~8時間かけてその荒波の様を、夢中になってスケッチしたのだった。

ヤドリ浜沖大波全図






2012年12月10日月曜日

2013年 新しい旅の始まり


 17年前、雑誌「アウトドアイクイップメント」の創刊を機に、シーカヤックの世界にのめり込んでいった。
 編集部の棚奥深くに仕舞い込まれていた、ファルフォークのフォールディング・カヤック[ベルーガ]を担いで、バラストを兼ねたキャンプ道具と水・約30kgを前後に詰め込んで、奄美のシーカヤックマラソン40kmを4時間10分で漕ぎきった。レースの翌日、反時計回りで加計呂麻(カケロマ)の周りに点在する5つの無人島を漕ぎ渡り、1週間かけて加計呂麻を一周した。
 その3日後、沖縄へと飛んで、知念の浜から久高島へ漕ぎ渡り、島を1週して南側の砂浜で2泊キャンプをしたあと、帰路途中のコマカ島を経由して知念へと戻った。
 それから1ヶ月後の8月の終わりごろ、今度は西表へと飛んで北西部海岸ゴリラ岩あたりの砂浜で、満天の星空の下で2回ばかり気を失った。
 それから約15年間、白いベルーガはわたしを色々な所へ連れて行ってくれた。旅で出会った多くの感動は、スケッチというメモ描きに姿を変え30余冊のクロッキーブックとして記録された。

 カヤックの旅を通して、絵の道具が整理され、ポケットに入る水彩絵の具とペンテルの水性ペン、それとクロッキーブックの3つになってしまった。以来、仕事のデザインワークも、描くイラストレーションも、この3つの道具でこなしている。
 そして旅のスケッチは、いつの間にか下書きがなくなり、ダイレクトな水性ペンによるドローイングが基本となり、一筆描きの駆け抜ける線が自分のタッチとなった。
 3年前の夏、とあることでベルーガのコーミング・キャッチの布地が、経年劣化のため組み立て中に裂けた。2度ばかり補修したがとうとうボロボロになり、波立つ中ではスプレースカートとの隙間から海水がジャブジャブ浸水するようになった。と同時にスターン・デッキのメイン・ファスナーの取っ手が壊れ、レザーマンのペンチ機能でなんとか挟み込んでスライドさせるはめになってしまっていた。15年共に旅を続けた「ベルーガ」もくたびれ果て、さすがに満身創痍の状態では島渡り・海峡横断は厳しく、セーリング・カヤックとして沿岸のライト・セーリング&パドリングだけで遊んでいた。
 沖縄カヤックセンターの仲村さんから中古艇ニンバス[ニアック]を手に入れ、しばらく乗っていたが、波圧に反発するリジットの固さになじめず、サバニレースやサバニ旅に気をとられ夢中になっていたこともあって、しばらくカヤックから遠ざかっていた。
 そうこうしているうちに、今年の7月上旬、琵琶湖北西部にあるフェザークラフト・ショップ「グランストリーム」の10周年記念ツーリング〜奄美・加計呂麻一周フォールディング・カヤック旅に飛び入りで参加させてもらった。その折にショップオーナーの大瀬さん推薦する新艇[ヘロン]を1週間ばかり借りてガンガン乗り回してみた。
 コクピットのホールド性は、ぶかぶか外人サイズのK1と違い、限りなく[ベルーガ]に近く小柄なわたしでもしっかりと膝でニーグリップでき、嬉しいことにラダーペダルの踵部分がフットバー固定式となっているため、踵(かかと)と膝(ひざ)、そしてその2カ所をグリップすることでお尻まわりのホールド性もアップし、踵・膝・腰の3ヶ所のボディーグリップにより、パドルでキャッチした推進力をロスすること無く100%船体に乗せることができるのだった。
 MSRウオータージャグ6リットルと4リットル2本の他に積載テストとして2リットルペットボトル8本、飲み水合計26リットルとキャンプ道具15~20kgを詰め込んだ。積載量はベルーガの1.5倍の積載能力があり、かつその積載状態でもベルーガの1.5倍ほどの巡航速度でガンガン進むカンジに驚いた。

 直感で「コレだッ!」と決めた。 
 加計呂麻一周フォールディング・カヤック旅の終わりに、大瀬さんにカタログに無いボディーカラーが白色の「ヘロン」を特注で頼んだ。船体の色が白の理由は改めて別項で話すとして、その理由を大瀬さんに伝えたところ、フェザークラフトの社長ダグ・シンプソンに直接頼んでみるとの事になり、わたしのワガママを了解してもらえることとなった。もちろん帆走用に、帆柱差し込み口の穴も船体バウデッキに設置してもらった。 
 来年から、2年ぶりに自分の新艇「ホワイト・ヘロン」白鷺・しらさぎ号と共にフォールディング・カヤックの自由な旅が、新たなスケッチの旅が、また始まる。 
 ガンガン漕ぐぞぉ~   
    ビュンビュン風を捕まえて 飛ぶぞぉ~!
 

2012年11月2日金曜日

焚き火のカマド

秋のキャンプは焚き火が楽しい。
調理のカマドとして、また寒い夜風からの温もり、夜の暗闇のほのかな灯りとして、いろいろ活躍してくれる。

まず、一晩過ごす為の乾いた薪を拾い集める。
つぎに、河原から石を運び込み、図の様な 焚き火カマド を組み上げる。
カマドに合ったサイズに薪を切りそろえ、大中小に分け並べておく。
 図は2〜3人のキャンプサイト用として組み上げた焚き火カマドだが、ひとり用ならもう少し小さくてもかまわない。でも基本は同じ、薪を燃やす焚(た)き火床と調理用の熾(お)き火床を分けて使うことだ。
 焚き火床では基本的にお湯を沸かし、手足をかざして暖をとったり、小枝を燃やしたりと火遊びする場所。そして、焚き火床にある程度 熾き火がたまったら、図のフライパンの下に熾き火を移動させて熾き火スペースを用意する。
 熾き火床では、ご飯を炊いたり蒸らしたり、シチューやカレーを煮込んだり、魚やパン、ソーセージや肉をジュージュー焼くなど、基本的に調理スペースとして使う。なぜなら、焚き火スペースでは火力が強すぎてアッという間に料理の多くが焦げ付いてしまう。厚手の鉄素材の鍋やフライパンなら均一に火力が回るが、アルミやステンレス素材の鍋やフライパンは、火の当たる部分だけがアッという間に高温になり、そこだけが焦げたり,煮えムラや片焼けの料理になってしまうのだ。
 また、火のついたすぐの薪からは煤(すす)や油分を含んだ煙が出て、鍋やフライパンが真っ黒に煤けてしまう。ケトルや鍋でお湯を沸かす場合でも、火を熾してすぐに火にかけるのではなく、火が安定して煙が出なくなってから火にかけると、煤汚れも少なくキャンプ後の道具の手入れも楽になり、余計な手間が省けるというものだ。
 また平らな石を火床近くに設置すると、その石自体が蓄熱し、ご飯やシチュー鍋、お湯の保温場所に使え、いつでも温かい食事をとることが出来るし、ホーローカップに注いだコーヒーは冷えること無く、焚き火が消えるまでいつまでも温かい。
 熾き火床に太めの薪2本を橋渡せば、図の様なゴトクさえも必要なくなる。もちろん、鍋を吊るす鎖(くさり)やフックをはじめ、ステンレス製の組み立て式焚き火カマド、ましてや重たい鉄製の三脚さえもまったくもって、お呼びでないのである。
 アウトドアの楽しみ、それは無いところから在るモノを生み出す、創意工夫の発見に出会うこと。
 
 知ることの喜び、真実は「焚き火」にあり。

2012年10月9日火曜日

万願寺とうがらし



 先月、若狭の海を少し漕いで、2泊3日のシーカヤック・キャンプを楽しんだ。
「原人キャンプ」と称した、ガスおよび石油系バーナー・ストーブ類 持ち込み禁止!というテーマが気に入り、東京から若狭湾・美浜までの距離470kmを、高速道路5時間ばかり車でカッ飛び、強行参加したのだった。
  そのキャンプで、はじめて「マンガンジ」なる食材を知った。
 参加したパミール高原(たかはら)がフライパン片手に、「マンガンジ!マンガンジ!」と連発するので、気になり、「マンガンジ!って、ナンじゃらホイ?」と尋ねれば、「関東はシシトウ、関西ではマンガンジ!」との答え。
 火床のフライパン覗き見れば、なんと若草色の細長いピーマン?24~25本が、胡麻油の香りの中でコロコロ踊らされているではないか。
 仕上げに塩コショウをパラパラとふりかけたその味は、ピーマン香る肉厚な皮の噛み応えの中に、ほのかな甘みがひろがり、ヘタ近くタネ部分のわずかな辛みとの掛け合いが、「うッ、うまい〜!」の感嘆詞を叫ばせる。これは完全に「関西マンガンジ」の圧倒的勝利!、というより、関東のシシトウと比べるもなく、まったく別物であった。正確には「万願寺とうがらし」という名の由緒ある京野菜らしい。 
 この旅での出合いを機に、東京都内のスーパーや八百屋にて「万願寺」を探し求めたが、どこにも販売しておらず、あきらめはそのうち忘却となり、「万願寺」は記憶から消えかけていた。
 そんなある日、中央高速の山梨方面にドライブに出かけ、途中、休憩で立ち寄った某サービスエリアの、地場産特設朝市コーナーを何気なく覗いた。すると目の前のザルの中に、な、なんと、若草色に輝く細長いピーマンを見つけた。ラベルに優しい手書きの文字で「万願寺とうがらし」と書かれており、ナナなな、なんと、価格は1袋14〜15本入りでたったの、ヒ、ひッ、百円!である。
 ここで会ったが100年目とばかりに、10袋ばかり積まれたザルごと買い占めようと思ったが、さすがに独り占めは気が引け、5袋を握りしめ会計のレジへと向かったのである。
 この日の夕食以来、大酒飲みのカミさんも「万願寺」を、ことのほか気に入り、今では「万願寺」がなくなるたびに、週末ドライブがてら山梨方面に高速をカッ飛ばしている。
 そうそう、わが家の食卓では現在、「万願寺とシシャモ」の組み合わせが一番のお気に入りで、ここしばらくは大皿盛り合わせが、続いているのだった。
パミールに感謝!   ~(敬称略)



2012年10月5日金曜日

背筋補正ベルト


深夜のテレビ通販 「背筋補正ベルト」広告
たまらず、 スケッチ してしまいました。
*参照テレビ通販 背筋補正ベルト 
           http://www.666-666.jp/product/1505.html 
          (*動画1分30秒の 約50秒あたり イラストのオバさん登場!)

深夜に、イチローの試合の結果を見るつもりが、別チャンネルのオバさんの「お腹がへこんで見えますヨ」がツボに入り、もう大変でした。
腹がへこんで見えるって…… 


   そして 戦後史の正体について。
それにしても孫崎 享(まごさきうける)氏の著書/創元社:発刊「戦後史の正体」は、この現代日本における政治、経済、社会全体の閉塞感の根源が、どこにあるかを読み手に考えさせる素晴らしき名著である。
 混沌とした暗闇を憂う者、明日を生きる多くの若者にとって必読の書。特に、メディアに準ずる職業に従事する者であれば、この書に多くを学び直し、反省をもって明日から己の歩むべき道を知らしめてくれる、と断言する。
まだ、目の鱗(うろこ)が落ちていないヤツは、すぐに書店へ走ろう! 1,575(本体定価1,500+消費税575) 握りしめて!

2012年10月2日火曜日

海を漕ぐ ~その4 「癒しの湯」と「満月風呂」



 奄美・加計呂麻一周カヤック旅の途中、江仁屋離(エニヤバナレ)にて一人だけ時間切れとなり、近くの実久・集落へと戻り帰京することになった。
 古仁屋(コニヤ)を漕ぎ出て3日目の朝、離脱する仲間を見送り、旅を続ける我ら16人は、次ぎなる楽園を目指し無人島・江仁屋離の白浜を後にした。
 漕ぎ出して1時間過ぎた頃、チームリーダー大瀬がGPSの速度表示によると、引き潮に乗るはずの潮の流れが弱く、入り江脇の反流のせいか、思いのほか巡航速度が上がらないと言う。シーカヤック・シングル艇なら荷物満載でも、潮の流れにもよるが、普通に漕いで3ノット*(時速約5.5km)、潮に乗れば4~5ノット(時速約7.4~9.2km)で進むはずである。ちなみに、ダブル(二人)艇なら荷物満載の場合、同じ条件でシングル艇に比べ+0.5〜0.7ノット加速し、ピッチが揃うと平均で4ノット(時速約7.4km)で巡航できる。(*1ノット:時速 約1.85km/h 換算)
 のんびりと漕いではいたが、山当てや岬のライン、左岸の岩のズレ具合を指針に、私はそれなりに速度を感じていた。しかしGPSの速度表示は想いもよらぬ時速3~4kmしか出ていないらしい。また先頭を漕ぐ大瀬から見て、後方舟列も先日までの漕ぎ具合に比べると、どうもタテ長に延びるようになってきたと言う。  
 シーカヤック・マラソンレース35kmを一気に完漕し、4~5日に及ぶ野宿を共に過ごしてきた、仲間たちの疲労度を感じとったリーダー大瀬の判断で、明日からの旅へのリセットということになり、急遽、西阿室(ニシアムロ)にある私の実家にて、一晩休息を取ることになった。


 その夜、就寝前にみんなで、大潮4~5ノット激流を越えての無人島「ハミャ」へ渡る可能性を話し合った。その結果、残りの日程を考えて加計呂麻一周を優先することとなり、今回チーム全員での「ハミャ」へのアプローチは中止となった。各自の漕波力を知るリーダー大瀬の提案とその英断に、全員一致での合意となったのである。
 明けて4日目の朝、西阿室を漕ぎ出す。1時間弱で5km進み風崎(カザキ)の岬に到達する。正面・与路島(ヨロジマ)と請島(ウケジマ)の間・沖合い3km先に無人島ハミャが見える。ここ風崎は加計呂麻で一番高い山・風崎岳(カザキダケ)がそのまま海へと切り立っていて、岬回りは強風吹き荒れ、潮がぶつかり大きな三角波の立つ難所のひとつである。にもかかわらず今回はラッキーなことに、さわやかな潮風そよぐ穏やかな海であった。

 我々はここから、あこがれのハミャを横目に風崎を左に回り込み、請島を右舷に見ながら、14km先の諸鈍(ショドン)集落を目指すことになった。途中二度ばかり砂浜に上がって休憩をとり、お昼過ぎには諸鈍に到達する。各自それぞれ集落の食堂や売店にて昼飯をすませ、しばらくして1.5km手前の浜に戻ってキャンプすることになった。途中の小さな滝で水浴びをしたあと、最終キャンプ地の砂浜に午後3時ごろ上陸したのである。
 みんなで舟を担ぎ上げ、テントやタープを張り終えたあと、いつものようにシュノーケリングや釣り、そして共同タープの日陰でのんびり昼寝と、皆それぞれに奄美の海辺を、マイペースで満喫するのだった。
 砂浜の左側には、海に向かって小さな沢水が流れ出ていた。
 パミール高原(たかはら)と初恵(はつえ)の二人が、沢を小石で堰止め、流れに水たまりをこしらえていた。途中から私とルミ子、そしてスコップを片手に松尾のシゲさんも加わり、みんなで仲間たちの汗を流すためにと「癒しの湯」を作りあげていった。
 少しづつ流れ込む沢水は思いのほか冷たく、みんなでキャーキャー言いながら一人づつ水風呂「いやしの湯」に浸(つ)かってみた。その楽しさのあまり、仲間の誰かを捕まえては、半ば強制的にと誘い込み、風呂に浸からせるのである。
 水の冷たさは、陽焼けに火照った身体にしみわたり、入水始めは全員「ウオォ~ッ」と身がちぢこまる。そこへ間髪入れず「はいはい、イタイのは最初だけ、すぐにキモチよぉ~くなりますよぉ」と支配人パミールの甘いささやきと同時に両肩を押さえ込まれ、数人から全身にチャプチャプと冷水をかけられる。「ウオォ~ウオォ~ッ」と雄叫びがあがったところで「イイ子おりまんがな、イイ子やでぇ~はい!イイ子たちサービスしてなぁ~」の支配人のかけ声と共に、初恵とルミ子が石けんと小石で、チクビをクリクリと限りなく優しく撫でるので、たまらず男ども全員「ウオォ~ウオォ~ッああぁ~~~」っと快感のあまり、そのまま昇天するのだった。
 湯上がりトドメに、奄美特産・黒糖焼酎里の曙(さとのあけぼの)〜を、強引に巻貝の盃で飲まされ、「エ~ご入浴とお酒で、はい2万5千円いただきます。ご請求書はどちら様へ~?」と、番頭の私がお代を告げるシステムが、あっというまに確立したのである。
 長風呂と大酒飲みは、最高4万8千円もボッタくられる始末となリ、当初の志(こころざし)高き「癒しの湯」は、気がつけば、濡れ手に粟(あわ)ウハウハ商売の「いや(ら)しの湯」に様変わりしていたのだった。  
 そんなこんなで、大騒ぎしていたら、対岸の空にたなびく雲間に真っ赤な夕陽が沈んでゆく。西の空が七色に輝いたあと、黄金のオレンジと茜色に染まり、紫色の夜の帳(とばり)が大パノラマの空一面に降りてきた。 


 夕食を済ませたあと、幾人かで焚き火を前に、この旅の出来事を笑い合った。私は先日の夜に1~2時間しか睡眠を取っていなかったので、眠気に誘われるままフラフラとタープへ戻り、そのまま気を失った。

 みんなの騒ぐ声で気がつき起きてみると、沢の奥に毒蛇ハブがいたらしい。私は沢近くの砂利場に、タープの下でゴロ寝をしていたので、あわててモスキート・ネットを張り直し、底の上下左右を小石で塞ぐのだった。
 それからというもの、なかなか寝付かれずウトウト居眠り状態が続いた。深夜にふと目が覚め浜を見たら、満月の光で砂浜が明るく照らされていた。ハブが気になりタープの回りをマグライトで見回り確認する。そして、あまりの明るさに浜辺に出て満月を見上げた。しばらくして風呂をのぞくと、なんと、満月がキモチ良さそうに、ひとり静かに入浴していた。
「癒しの湯」を「満月風呂」と名を改め、ハブにおびえながらモスキート・ネットに潜り込んだ。入り口を完全に小石で塞ぎ、そのまま気を失いつつ、ハミャのソリ滑りをひとり夢見ながら、静かに眠りに就くのであった。 〜(敬称略)

 ああ「満月風呂」よ ふたたび。


2012年9月25日火曜日

海を漕ぐ ~その3 無人島の遊び

 自立するカヤック旅を目指す仲間たち17人は、奄美の無人島・江仁屋離(エニヤバナレ)に上陸するやいなや、テキパキとテントやタープを設営したあと、シュノーケリング、釣り、貝拾い、無人島探検、カイトによる空撮に興じる者、そして日陰でのんびりと昼寝をする者等と、それぞれに無人島の浜辺や磯遊びを満喫するのだった。
 わたしは薪拾いついでに、遠くに浮かぶ無人島ハミャの砂浜でのソリ遊びを目指し、ビーチコーミングしながらソリの材料拾いにいそしむのである。すると、すこし小ぶりだが手ごろな板と棒切れ、それと漁具のロープを手に入れた。求めよ!されば与えられん、おお〜八百万(やおよろず)の神よ、感謝します!
  無人島生活経験が豊かなわたしは、だいたいの無人島生活に必要な物、特に遊び道具に関してのあらゆるモノを、漂流・漂着物で作り上げてしまう特技を持っている。
 ある時は、浜辺の漂着物と細引き、キャンプ道具だけで、上下可動式のリーボードとセーリング・キットを半日をかけてカヤックに組みあげ、1時間かけて漕ぎ渡った無人島から、追い風を帆に受けてアッという間の15分足らずで、漕ぎ出した港へと戻ったのであった。
  
 おお~ニライカナイの神々よ、感謝します! 我に その知恵と術を ささやかながらも豊なる楽しみで さらなる高みへと 導き給へ。
 これだから、無人島へのカヤック旅は やめられない! のだ。

(つづく)






2012年9月18日火曜日

海を漕ぐ 〜その2 ハミャ


 遠く 小さな無人島ハミャの砂浜が 白く輝いている。

 小学低学年のころ故郷・西阿室の堤防で、叔父さんが ハミャ(*) の砂浜を指差し「あの白いハミャの浜は、スキーができるくらい砂が高くせり上がっているから、板を持って行って滑ると面白いよ」と教えてくれた。雪を一度も見たことの無い南の島育ちの私は、幼心にもその滑走感を想像するだけで小さな胸がときめき、いつかぜったい滑りに行くぞと、心に決めたのであった。
 40才を過ぎた小学33年生は、はじめて白い[ベルーガ]フォールディング・カヤック・シングル艇で、全航程38kmの奄美シーカヤック・マラソンを4時間11分で完漕した翌日、古仁屋の港を漕ぎ出し、対岸の加計呂麻(カケロマ*)を反時計回りに、実久、江仁屋離、そして西阿室へと3日かけて漕ぎ渡った。1日休んだ翌日、南南西8km沖に浮かぶハミャの白い砂浜を目指し、西阿室の港からひとり漕ぎ出したのだった。もちろんスキーならぬソリ用として大きめのダンボールを一箱折りたたんで持ち込んでいた。


  引き潮にのり約1時間30分をかけ、ハミャの手前・左側の砂浜にたどり着いた。そこではまず波うち際の砂のせり上がりに驚いた。波うち際から一気に40度の角度で砂浜が1m50cmほどの高さにせり上がっているのである。飲み水とキャンプ道具満載のベルーガを陸揚げするにも、砂に足を取られ舟を上げることが出来ない。 急遽、島の真ん中あたりの比較的低い波うち際の浜から再上陸したのだった。

 左側にせり上がる砂浜を見て、最初は「あれっ…こんなもんかぁ〜……」と想いのほか小さく感じ、拍子抜けする。が、ライジャケとスプレースカートを脱ぎすて、とりあえず砂浜を駆け上がってみて驚いた。せり上がった砂浜の3分の2ほど登ったところで、勾配の角度が一気に急になり四つんばにならないと登れないのだ。這いつくばり、崩れる足元の砂を踏みしめて頂上のアダンの茂みに、やっとのことでたどり着きその枝にぶら下がった。そして振り返えり見下ろした砂浜の高さにまたまた驚いた。ビルの高さにすると5〜6階はあるだろうか、下から見上げるのと、上から見下ろすのとでは大違いである。5~6階建ビル屋上の縁に立ちすくんでみることを想像するといい、メチャめちゃ高いのである。


  驚き、興奮する気持ちのまま意を決し、枝から手をはなして一気に駆け下りた。一歩が3〜4m越える落下のスピードに、崩れる足元の砂のふんばりが利かずいきなりズザァ〜〜っと転んだ。顔じゅう砂まみれになり、滑りながら立ち上がって駆け出したら、足が追いつかず2〜3歩進んだところで、またまたズザァ~と前のめりに転んでしまった。
 滑り止まった全身砂だらけの状態で、斜面に寝転んだまま腕枕を立て、眼下のエメラルドグリーンの海を見回した。 広々とした白い砂浜に、ひときわ真っ白に輝く「ベルーガ」のデッキに置かれた赤いビルジ・ポンプ、そして島の左岸・岩場沖で飛び交い、次から次へと真っ青な海面に飛び込む白いアジサシ200〜300羽の群れを、潮風に吹かれながらしばらく眺め続けていた。

(つづく)

(*)●請島(ウケジマ)と与路島(ヨロジマ)の間に浮かぶ無人島[ハミャ]の島名は、国土地理院発行の海図にはハンミャと記載されているが、地元の漁師たちは[ハミャ]と呼ぶ。生前の父に、海図を前にしてハンミャのことを聞いたことがある。父は開口一番、「ハンミャじゃないよ、ハミャよね。島の言葉で 間(はざま)という意味で、請島と与路島の間という意味の ハミャ と言うんだよ」そして海図をのぞき込み「加計呂麻島(カケロマジマ)は間違いよね。カケロマの「マ」は島という意味なんだよ。沖縄にケラマ、ハテルマ、イケンマ、タラマとかあるでしょう、あのマはみんな「島」って言う意味なんだよ。この海図の呼び方は大和(ヤマト)ンチュが勝手につけた当て字で、正確じゃないよ。」と伝えてくれた。それ以来、ハミャ、カケロマ と古来からの地元の名で呼び語っている。

2012年9月14日金曜日

海を漕ぐ 〜その1 江仁屋離(エニヤバナレ)


 遠く 小さな島の砂浜が 白く輝いている。


 ひさしぶりに 故郷の海を漕いだ。

 フォールディング・シーカヤックを乗りこなし、自分自身の新たな可能性にチャレンジし、各自がそれぞれに[自立したカヤック旅]を目指す仲間たち17人は、ここ奄美の無人島・江仁屋離(エニヤバナレ)の砂浜に上陸したのである。


 ある者は、かかえきれないほどの遊び道具を満載し、ある者は、初めてひとり漕ぐ紺碧の海への不安にも似た畏敬の念と、あらゆる出合いや初めて体験する世界への期待と心の高鳴りを胸に、握りしめるパドルにその情熱を込めながら漕ぎ進むのだった。

 15km遠く南に 無人島・ハミャの砂浜が、白く輝いている。

 奄美・加計呂麻(カケロマ)の海を廻る約6日間のこの旅は、毎日が充足に満たされた屈指の良きカヤック旅の思い出として、心奥に刻まれることとなったのだった。
 
 真実は 旅 にあり。 知ることの喜び。
 
 あと 2時間足らずで陽が沈む。
 2012年7月3日 江仁屋離(エニヤバナレ)の砂浜、
 
 おだやかな 南の風が 吹いている。

 (つづく)
●風よけとしたカヤック脇に、1本の小枝を砂地深く突き刺し,細引きロープでテンションをかけ、コクーンのモスキートネット(蚊帳)を吊るした。明日は満月。今宵の月もさぞかし明るいことだろう。

2012年6月25日月曜日

渓流にて

ひさしぶりに山奥の渓流にて、雨・風そして焚き火、夜の暗闇と遊んだ。
釣りの達人である友人は、身支度を決めるとすぐに竿をふりながら沢を遡上しはじめ、渓流の中へ忍者のように消えていった。
空を見上げると,にわかに雲がたちこめ、今にも雨が降り出しそうな気配だ。
とりあえずタープを張り突然の雨に備える。
タープを張り終えたころに、風が川上より吹き下りてきた。
夜風に備え斜めに柱をとって、風よけのタープを張る準備を施す。
雨が降る前に拾い集めておいた流木・小枝の薪をタープの下に置き直し、コットを組み立て寝床を準備したあと、火床を石で組み上げた。
友人のためにソロ・テントを組み立て、一息ついていたら、目の前の岩肌にポトポト小雨が降りて来た。
あわてて火を熾し、火床横の岩の隙間に2又の枝を突っ込み、沢水を満たした鍋とケトルを吊り下げる。火床が濡れないように、60/40の小さな雨よけタープを火床の真上にセットする。
お湯が沸き、真っ赤な熾き火で火床が落ち着いたころ、小雨のなか、友人が4匹の小ぶりのイワナを生簀に泳がせながら上流からもどってきた。

薪をくべ火に暖まり、温かいコーヒーを飲みながら、ひさびさの渓流キャンプでの再会を喜び合った。
互いの家族のこと、釣りや旅の話、出版や仕事のことから原発事故のこと、そして河川や湖、森林や海辺の営みのこと、放射能のこと、そして、これから目指す多くのやるべき事と、その可能性を話し合った。

夜の帳が降りてくるころ、簡単な食事を済ませ、その後、焚き火を眺めながら、酒や温かい飲み物を交わしつつ、過ぎ去りし思い出を笑い合った。夜の9時を過ぎた頃、ひさびさに渓流を3〜4時間遡上した疲れと酒の酔いからか、友人は早々とテントの寝床へと潜り込むのだった。

ひとり焚き火横で、夜の沢音とタープに降る雨音を聞きながら、マグライトの灯りの下、今回のフイッシング&キャンピング〜5ページのラフ・デザインとイラスト要素ラフをクロッキー・ノートにメモをはしらせる。
ときおり火床に大きめの薪をくべ足し、コーヒーを入れ、一服してまたラフに没頭する。

いつしか雨は止み、タープの向こう、暗闇のなかに沢音だけが響いていた。

大きな薪が燃え尽きる頃、時計を覗くと12時40分を過ぎていた。カップに少しの黒糖とショウガ、レモン、そしてラム酒を加え、お湯を注いだホットラムを飲み終えたあと、コットにモスキート・ネットを吊り下げ、眠気と共にシュラフの中へと潜り込んだ。

しばらくして、ポツポツとタープに小雨が落ちて来た。

暗闇に響く沢音のなか、ときおり吹く風と雨音を聞きながら、いつしか深い眠りへと落ちていった。






2012年4月23日月曜日

桜咲く


 
都会の人工的な満開の桜の木の下で、
花より団子なわたくしは、

さくら~ さくら~ やよいの そ~ら~は~♪  と
は~る~こ~ぉ~ろ~ぉ~の~ は~な~の~宴~♪ 
そして 陽水クンの 「桜三月散歩道」の3曲をつま弾きながら、
散り行く桜たちと戯れつつ ウトウト居眠りこいていました。
東京の桜が散ったあと、標高の高いとある旧街道へと赴き、
花見用のお弁当と和菓子とお茶を持ち込んで、小高い山路の中腹に咲く桜の木の下で、倭の國の原風景・里山にある満開の春を楽しんだ。
しばらくして
風もなく ハラハラと花散る桜の下、
去年の芝公園に咲く満開の桜を思い出し、
主(あるじ)なしとて 今年も咲いているであろう 福島の桜と、その主の悲しみを想う。 
 

水や空気、田畑や森林・河川や豊穣の海より 電気が大切というのか。
生きとし生けるものすべての命より、経済が、金が大事というのか。

過ぎ行く春の 美しさと 悲しみ そして失った多くの怒りに 想いを馳せるのだった。

そんな中、
福島の吉田さんから、彼の娘さんが第一希望の高校に無事「合格」したという
吉報を思い出した。

桜咲く。 満開の サクラ サク!

こころから おめでとう。




2012年2月25日土曜日

福島の家族に。



広瀬隆(ひろせたかし)さんと、小出裕章(こいでひろあき)さんのメッセージに聞き入っていると、想い出してしまう家族がいる。

福島県の南部・石川郡玉川村にて、愛すべき3人の子供たち、そして優しくがんばり屋の奥さんと暮らす彼らは、森と田畑広がる素朴で美しい日本の源風景の村落で、代々農業を生業として豊かに暮らす家族だ。
福一原発事故の放射能拡散による田畑や水、そして大地や森、そして子供たちへの様子を聞いたところ、20キロ西部の白河に比べると、石川郡あたりは汚染がまだ少ないという。
作った野菜やお米は、高性能の測定器を独自で購入し、計測して記録し続け「安全」を確認しているのだ。
その諸々の手間や精神的な苦労を想うと、胸がいたむ。
いくつかの情報を交わしたあとに、携帯電話の向こうで、こんな話を彼はつぶやいた。

日頃、家屋内に閉じこもりがちなので、子共たちの外遊びのために福島県外へ出向いたところ、いくつかのキャンプ場で、車の「いわきナンバー」をみて入口ゲートで入場を断わられ、あるキャンプ場では、止めていた車体に「福島へ帰れ」「放射能をまき散らすな」などと、イタズラ書きをされたという。
そして、彼の子供たちは「もう、キャンプには行かない」「他県には行かない」と悲しんでいる。と

なんと言うことだ。
いつから日本人は、こんなにも残酷で情けない人々に変貌したのだろう。

苦しみ、困っている人たちに対して、その事を我が身に置き換える「想像力」を、そして「想いやる心」を、いったいどこへ置き去りにして来たのだ。

その行ないは、これほどの事故を起こしても原発をいまだに推進する人々と同様の、非人道的かつ非情な冷たさを感じる。
日本人はいつから、こんなにも「心のない貧しい民族」に変わってしまったのだろう。

……… 子供たち そして彼ら家族の、そのときの気持ちを想うと、胸奥が詰まる。

しばらくして彼は、今、上の子が高校受験に励んでいて、合格したら「沖縄」に一緒に遊びに出かけるという。
「合格したらもちろんだけど、合格しなくても、いつでも沖縄においでよ」と言葉をかけたら、笑い声と共に「そのときは、よろしくお願いします。」と明るい返事が返ってきた。

人工的建造物や灯りひとつない白い砂浜で、月明かりの下、小さな焚き火を熾し、そして暖かい飲み物を分け合いながら、天に輝くオリオンやシリウス、大きな北斗七星の夜空でも眺めましょう。月明かりに輝く、沖つ白波もとても幻想的で美しいですよ。
よろこんで「パラダイス沖縄」をご案内させていただきます、吉田さん。


  そうだ!思い立ったが吉日、 今日は大安だから、普天満宮の神様へ合格祈願の「お参り」をしてこよう。 

            良き事が ありますように。








2012年2月18日土曜日

この時代



今 我々は どんな時代を生きているのだろう。

「出版」という路を選び、いくつかのメディアを渡り歩いていたつもりだったが、気が付けばとんでもない時代のうずに巻き込まれている現実を知る。

東日本大震災をはじめ、福島の原発事故、そしてその後の放射能汚染。
悪徳官僚支配による政治の迷走。そして、最高権力を持つ最高裁裁判官および検事正たちと特捜検察、そして全国津々浦々の警察組織をはじめとする裏金問題や、その司法組織と癒着した一部の政治家たちによる、小沢一郎や鈴木宗男に対する国策操作の職権乱用。

いままで白と想っていた多くが黒であり、黒と想っていた幾つかが白や灰色だったりしている。

すべての命ある物にとって、生きるに必要不可欠な「水」と「空気」を汚し、海山河川湖沼そして森林に至る多くの生態系を狂わせ始めた放射能汚染、そしてこれから何十年、いや何百年と多くの人々を苦しめ続けるであろう原発事故が起こっているにもかかわらず、いまだに原発を推進する狂った経済界や政治家たち。

20〜30年、いや50〜100年後の未来の人々は、2011〜2012年のこの狂った時代を、どんなふうに想うのだろう。

来月11日で、あの日から1年がたつ。

我々は今、どんな時代を生きているのだろう。


●ジャーナリスト・岩上安身  IWJ   Independent Web Journal
http://www.ustream.tv/recorded/19317792
http://www.ustream.tv/recorded/19317792

●元レバノン大使 天木直人 ブログ
http://www.amakiblog.com/
http://www.amakiblog.com/

●八木啓代 ブログ


2012年1月1日日曜日

「龍」のはなし

昨年11月の、ブータン国王来日に際しての国会における国王歓迎会にて、感動的な挨拶と貴重なメッセージを伝えてくれた国王ジグミ・ケサル氏は、北陸の東日本災害地を訪れた際にも、子供たちを前にご自身の「龍」の話をなされていた。
人の心の中には、人それぞれ1匹の「龍」が宿っており、人は自身の善良なる心をもって、その「龍」を一生かけて育てなくてはならない。と

奄美大島生まれのワタシは、そんなこととはツユ知らず、幼い頃から現在に至るまで、海と川、野原や町中で、これでもかと遊びまくっていた。
泳ぎ、潜り、溺れ、歩き、走り、転び、ケガをくり返しては、また歩き出す。そして、その中で出会えた幾つかの感動を「絵」という楽書(らくがき)をとうして、ず~っと描きつづけ遊んでいるのだった。
そんなワタシでも小学30年生の頃、「龍」に出会ったことがある。
台風を描きたくて、台風上陸4日前に奄美へと渡り上陸3日前から、強い雨と風の中、野宿をくり返していた。そんな中、太平洋に面した小さな入り江の、とある海岸でのこと。
海岸線谷間に聞こえる地響きの音に向かって、外洋の強風に飛ばされる潮つぶてに打ち付けられながら小高い丘に駆け上がった。
眼の前40m下に繰り広げられる外洋7~8mの高波が、幅100m左右の岩高50~60mほどに切り立つ入り江の中で、天地左右、縦横無尽にズドドド~ズッドォ~ンと暴れ狂っている。手前の波打ち際には大人の握りこぶし2個分くらいの大きな玉石ばかりが堆積しており、波打ち際から一気に40~45度の角度で4~5mの高さまでその玉石ばかりが迫り上がっているのだ。
その波打ち際に押し寄せる5~6mの高波は、一気にゴオオォォォ~と音を立てながら玉石を押し上げ、返す引き波にてガラガラガラガラ~とこれまたドでかい音を入り江の谷間に響かせながら、切り立つ深い海へと玉石を引きずり下ろすのである。
くり返されこだまする谷間の地響きと、眼下に荒れ狂う高波は、龍玉のような透明感のある若草色の巨大なうねりで、まるでドでかい「龍」が入り江の中で暴れ回っている様なのであった。

打ちつける潮でずぶ濡れになりながらも、20~30分余り、その感動に立ちつくし巨大な「龍」を眺めつづけていた。そして、ある瞬間に、コレまで遊びつづけ描きつづけていた多くの海岸線の景色や、生き物たちが内包する今日に至るまでの悠久の時間が、連続性をもってフラッシュ・バックしながら光り輝き、自分の脳裏にひとつの時間軸の流れとしてまとまったのである。
沖縄、奄美がかつて「琉球國」と呼ばれていた意味、そして台風という巨大な「龍」の力によって育まれた多くの命の尊さを改めて認識した瞬間なのだった。

開けて本年〜2012年は「龍」の年。

今年が、日本という国、そして私たち個人の中に宿っているであろうそれぞれの「龍」が、自身の善良なる心で、光り輝く年でありますように。 
めざせ アカルイミライ