2017年6月14日水曜日

無人島・ハミャ


 奄美大島の南部・加計呂麻(カケロマ)の更なる南に、加計呂麻から見て右手に与路(ヨロ)島,左手に請(ウケ)島の二つの島がある。
国土地理院や海図には、加計呂麻島、与路島、請島とそれぞれ島という漢字が語尾に付けられているが、島の人々、特に老人たちは古くからカケロマ、ヨロ、ウケとしか呼ばない。
 明治の手前・江戸時代の後期までは、奄美はまだ琉球國だった。
 加計呂麻は琉球から見て、大島本島の手前にある大島の影のように寄り添っている島を意味する、カゲヌマ(影の島)が語源で、マ自体が島を表す。
 慶良間諸島のケラマ、波照間のハテルマ、多良間のマ、そしてウルマのマしかり、古き琉球の言葉においてはマ自体が島を意味するので、ケラマ島、ハテルマ島、タラマ島、そしてカケロマ島という当て字は明治以降の日本政府が付け足した地図用表記語なのだ。〜と大正14年生まれの父・伊東賢夫(けんお)が生前、加計呂麻島という言葉を目にする度に「加計呂麻島という言い方はまちがい,カケロマが正しい呼び方!」と、諭すようにつぶやいていた。
 そして、前記のヨロ、ウケの間に小さな無人島「ハミャ」がある。
その無人島は国土地理院や海図には、ハンミャ島と表記されているが、ハミャが正しく、いまでも近隣の島人たちはハミャと呼んでいる。
 海図をひろげてハンミャと呼ぶ私に「ハンミャじゃないよネ、あの島はハミャといって、ヨロ、ウケの間(はざま)って意味なんだよ」と、諭す父の言葉を想い出す。
 無人島「ハミャ」のまわりは潮の流れが強く、大潮の激潮・満干時はなんと4kn(ノット)の流速から70cm〜1mの潮目の段差が波うっている潮の難所でもある。4knとは、漕がずとも潮に乗れば1時間でな〜んもしないで7kmチョイ流されるということなのだ、ヒエェ〜〜。


 とはいえ、毎年この激潮に乗り、われらシーカヤック乗りはこの楽園を目指す。
 なぜって? そこは私たちにとっては,安易に人を寄せ付けない奄美に残された最後の「楽園」なのだから。
 ことしも いくぞぉ〜〜〜〜 風吹く ハミャ へ!


2017年6月10日土曜日

酒瓶と骨壺


 父の七回忌2006年・弔いの宴席用にと、11年前のカーチベ吹くこの季節に、琉球古酒の龍瓶と洗骨・改葬用の骨壺のふたつをサバニに載せ、沖縄から奄美までの荒海250kmを仲間たち3人と漕ぎ航った。
 旅の途中、大島海峡入り口には、波高6m以上の外洋の巨大なウネリが次から次へと押し寄せており、その圧倒的な神々しくも崇高な世界を我等3人は何を恐れるでもなく、横風を帆に受けながら、ただひたすら北へ北へと4〜5時間のあいだエーク(櫂)をにぎりしめ、永遠と想える時を漕ぎ続けたのだった。
 父の生まれ育った浜辺の墓地にて土葬に眠る父を2009年3月春・掘り起こし骨を拾い集め、浜辺にて兄と二人で洗い清め,母にあつらえてもらった絹の白衣を着せて家族全員で見守るなか荼毘に付し、遺骨を壷に収めなおして改葬の儀を行い、あらためて父を新たな安住の墓中へと眠らせたのである。


 いまは同じ古郷の浜辺の墓地に,10年後の再会を夢見て屋形(やぎょう)の下に最愛の母が眠っている。

 感謝