2013年11月19日火曜日

2013 奄美・加計呂麻(カケロマ) シーカヤック旅 〜その1

1Dayヤドリ浜から渡連(どれん)の浜へ


 台風26号が関東地方を北上した先月17日ごろ、奄美大島の南部・瀬戸内町のヤドリ浜から、7人の男どもが、目の前に浮かぶ加計呂麻一周を目指し漕ぎ始めたのは、出発予定時刻より1〜2時間遅れの午後2時45分だった。
 昼12時が17日の干潮ピークゆえ、潮が反転し動き始める1〜1時間半のタイムラグを考慮しての午後1〜2時出発予定で、満ち潮に乗る反時計回りのコース・プランであった。
 日の入り6時として日没まで3時間、パドリング1時間半〜2時間・距離10km以内に設定して、とりあえず5〜6km先の「スリ浜」を目指す。
 3km、40〜50分ばかり漕ぎ進んだ黒崎沖の大島海峡ど真ん中は、引き潮と満ち潮が複雑にぶつかり合い、あちらこちらに三角波が立ち、渦が巻き、盛り上がる潮の流れで、舳先(へさき)がアッという間に左へ50度以上押し流された。
 こんなときは激潮に逆らわずに、流れる潮に乗りながら、一気に最短の岸辺を目指すのである。そして潮の流れが治まったところで、目指す方向へと転舵するのが、シングル艇のパドリングで最も安全な航海方法なのだ。
 漕ぎ出してから1時間過ぎたあたりで、後方45度・方位〜北東からの風が急に強くなってきた。目指すスリ浜は北東に向かっての浜なので風に吹きさらされる事になる。それを回避するため、急きょ上陸予定地を変更し、風裏の浜として左後方に見える「渡連」の浜を目指した。
 4時20分、渡連に着岸する。大潮のタイドラインと今日の風波を考えると、大きな渡連の浜への選択は最適であり、かつ日没6時〜7時からの夜の帳(とばり)を思うと、キャンプ設営2時間余の明るさは好判断だった。

1day〜初日、距離4.5km:約1時間30分パドリング。近くても大島海峡の潮の出入り口近くという、なかなかの一筋縄では行かない複雑な潮流と風、そして風裏キャンプ地選択という柔軟な状況判断にて、それなりに快適な初日の夜を無難に過ごす事が出来たのだった。

(つづく)
風防とペグダウンを兼ねたヘロンを風上に置き、風を逃がすようにタープを斜めに張る。グランドシートを敷き、モスキートネットを吊るして砂浜にゴロ寝ビバーク。10月後半の奄美の夜風は少し肌寒く、スリーシーズンのシュラフを必要とする。


2013年11月11日月曜日

安達太良山の初秋〜その2

智恵子の 空
 

 深緑に輝く背の低いハイマツの茂みをぬけると、稜線遠くに目指す安達太良山の山頂・乳首(ちくび)岩場と、その左側の嶺づたい奥に、赤茶けた鉄山(くろがねやま)の岩場が切り立っている。その稜線上に智恵子のいう「ほんとうの空」が雲をたなびかせ輝いていた。
 少しの休憩を終え、標高1700mの山頂にたどり着いたときには、いつしか青空は消え、目の前に隆起する巨大な乳首岩は、霧の中にボンヤリと薄衣(うすごろも)をまとっていた。

 クサリ場をよじ登り、薄曇りの雲の中にたたずむ岩場頂上は、峰を越える風が吹き荒れていた。肌寒くも、乳首岩に抱きつき頬ズリしたら、下界の遠く彼方から、智恵子の「アァ〜ン……」というささやきが、風に乗ってかすかに聞こえた。?…気がした。

 しばらくして、鉄山下渓谷にある「くろがね小屋」を目指し下山を始める。幾つかのトレッキング・コースが交差する分岐近くの岩場には、赤丸印の道標が頼もしく誘導してくれる。そして日暮れ少し前に、予定通り「くろがね小屋」にたどり着いたのだった。
 翌朝、山小屋の周りは朝霧に囲まれていた。
 食事を終えたあと、小屋の乳白色・源泉掛け流し温泉でのんびり朝風呂を浴び、霧の晴れた11時過ぎに下山を開始する。初秋に色づく紅葉を眺めながら整備されたトレッキング・コースをゆっくりと下りてゆく。
 下山コース終盤に、安達太良渓谷の「渓谷・遊歩道コース」を歩く。 
 小さいながらも美しい数本の滝と、ミズナラやカエデ、モミジなど広葉樹林豊かなこの渓谷には、小さな秋が始まっていた。紅葉真っ盛りには、さぞかし美しい秋景色なのだろうと、滝横でしばし佇(たたず)み、錦(にしき)織なす紅葉に想いをめぐらす。

 ふと見上げると、黄色く色づいたミズナラの向こうに、水色の青空がひろがっていた。


 智恵子の言う「ほんとうの空」とは、
季節ごとに変化する色とりどりの美しい山々と、その裾野にひろがる集落の、田畑を潤し多くの命を育む豊かな「清き水」の流れ、それらを生み出す嶺峰にかかる白き雲や風、そして降り積もる真白き雪などの全てがひとつに重なることで、はじめて「ほんとうの空」であることを伝えたかったのかもしれない。

 
2011年3月 、あの忌まわしい原発事故以後、久しぶりに阿武隈山系を歩き、
悲しくも…、そんな想いが、
あの白い雲と共に、胸奥にひろがっていった。






2013年10月9日水曜日

シンプル・ソロ・タープ


60/40混紡 
亀吉オリジナル・ハンドメイド・タープ
 シーカヤックおよびフィールドでの、ソロ・キャンプのビバークは、突き刺した1本の棒に細引きでテンションをかけ、4角を固定して小さなタープを張る。
その下に大きめのタープを三つ折りにして、グランドシート代わりに敷きつめ、その上にコットンシーツを敷いて寝床とする。


風が無い浜辺や薮の近くでは蚊の襲撃に備え、コクーンのモスキートネットを吊り下げ、頭の上部にたたんでぶら下げておく。
蚊の襲来にはもちろんモスキートネットをサッと広げ、突然の雨には下に敷いて折り畳んであるタープを1/3引き出し、それをサッと被り雨をしのぐ。



ま、雨が降らなきゃラッキーであるが、所詮、濡れる覚悟で外で寝ているのであるからして多少は濡れても、ど~ってこと無い。
濡れることよりも、満天の星空を眺めながらそのまま気を失うことの方が、はるかに楽しく心地よいのだから。
タープを通してパタパタと雨にたたかれる感じ、これがまた楽しかったりするのだ。






2013年10月4日金曜日

安達太良山の初秋

ナナカマド

久しぶりに東北の山を散歩した。

高村光太郎の短編集「智恵子抄〜あどけない話」に
智恵子は東京に空が無いといふ。 
わたしも そう想う。


智恵子抄〜あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ。

ほんとの空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が

智恵子のほんとうの空だといふ。

あどけない空の話である。


で、記されている「ほんとうの空」を見ようと、
安達太良山(あだたらやま)に登った。

まだ9月下旬だというのに標高1500〜1700mにかけて、
小さな秋がはじまっていた。


秋の入口とはいえ、植物たちの鮮やかな色彩についつい足を止めてしまう。まぶたに焼き付いたナナカマドの赤い実の美しさを、記憶の褪(さ)めぬうちにと、たどり着いた山小屋にてコンパクト・カメラのモニター・メモを眺めながら、残像の断片をたどりつつスケッチをとる。

ナナカマドの実は果実酒に利用でき、疲労回復、強精、強壮、利尿作用の効果があるという。
なんと、その樹木は炭としての極上品・備長炭の材料として古くから慎重され、火持の良い強い火力は、七度、竃(かまど)に入れても燃え尽きないことから、ナナカマドと呼ばれているのだった。

(つづく)

2013年9月11日水曜日

外遊びの原点


22才と57才の夏



誰が何と言おうと、「南の島」と「夏」が好きだ。



ケツの青いガキの頃、5~6人の同じ歳の子どもたち同士で団子になり、小さな小川のせせらぎ沿いで、裸同然のビショ濡れ状態で、一日中、泥んこ遊びから虫探しに夢中だった。



小学生の夏休みは、毎日、朝食のトーストを喰わえてパジャマのまま家を飛び出し、近所の子どもたち15~20人ほどで広場に集まり、三角ベース(野球)やチャンバラ、カン蹴リ、2チームに分かれての駆けっこリレー、騎馬戦などなど、昼飯も忘れて暮れなずむ夕刻まで、必死になって近くの野山を駆け回っていた。風呂あとの夕飯時は、遊び疲れからウトウト居眠りしながらの食事で、自分の寝床フトン手前で気絶する毎日を送っていた。



二十代になった学生最後の夏休み4~5日間は、友人とふたりバイクで島中を走り回り、海辺の砂浜で野宿を楽しんだ。その時のキャンプ道具は、友人の兄から借りたオレンジ色の三角テントと、小さなケトルに赤い灯油ランタン1個。そしてわたしが小学生のとき山中で拾った、アメリカ軍御用達ブッシュナイフ1本とポケットマッチひとつ、それと単1電池が4本も入るデッカい災害時用懐中電灯だった。




1977年・孝志 パンツイッチョ 22才の夏



砂地での設営に苦労した、はじめての三角テントも太陽照りつける日昼はオーブン状態と化し、夜風の通らぬ真夜中はサウナ地獄だったので4~5日間は、ただの荷物置き場になっていた。それでも潮風の中、やっと熾した焚き火でお湯を沸かし、インスタントのコーヒーやラーメンを食する楽しさをはじめ、水平線に沈む真っ赤な夕陽の美しさと、日没後の虹色に七変化する天空の大パノラマ。赤々と燃えて消えゆく熾き火の温もり、真夜中に見上げた満天の星空の輝きと、ふと目覚めた深夜の満月に照らし出された幻想的な浜辺の月明かり。それらの体験と感動は、その後の私の40年近くに及ぶアウトドア・ライフ活動の原点となったのだった。



社会人になって、得意とするイラストレーションを基軸に、ポスターや雑誌・書籍のレイアウトなど、グラフィックデザイン・アートワークに携わりながらも、ひと夏の休日のほとんどをバイクに跨がり野山を駆け巡り、原野や河原での野宿を繰り返していた。

そして30〜40代、娘の夏休みには愛車ミニのルーフキャリーや小さなリア・トランクに、なんとフォールディング・カヤックをも積載し、家族3人分の衣食住キャンプ道具を、これでもかというくらい詰め込んで、まる1週間にもおよぶ移動型〜秘湯めぐりの湖畔キャンプを敢行した。

50代後半になった小学51年生は、最新鋭のフォールディング・カヤックを手に入れ、30代からの20数余年来、相も変わらず南の海を漕ぎまくり、幾つかの島々と無人島を渡りつつ、フィールド・スケッチを通して「感動する日々」を生きている。




2012年・小学50年生の夏 孝志57才
やはり パンツイッチョ!



友よ 

真剣に 遊んでいるかな
元気に 生きているかい?









2013年9月10日火曜日

源流ビバーグ


巨岩と渓谷 

行けども行けども切り立つ崖と、行く手をさえぎる巨岩の渓谷だった。 


40リットル/12~13kgのザックを背負い、大井川の源流へと路無き路を遡上していった。某フリーマガジンの源流渓谷釣り取材である。
編集者曰(いわ)く「場所によっては全身ズブ濡れの、泳ぐ覚悟で装備してきて下さいね。また、崖や岩場をよじ登るから荷物は少なめにお願いします」との事前警告どうり、完全防水パッキング、かつ2泊3日の野営ビバーグ装備総重量・10kg+食料&水2~3kgにてのパッキングとなる。
フレーム・テントを外し、久々にハンモック・テントと軽量ヒルバーグ・小タープのみでのビバーグである。ソロ用クッカーと着替えのウエアー類、それにスケッチ道具で40リットルのザックは、アッという間に満杯になってしまった。 
標高800あたりから登り始めて1300mの源流まで遡上するという。夏場とはいえ標高1300mの夜、しかも沢の吹き下ろしの風を想うと、スリーシーズン用シュラフは欲しいところだが、すでにザックは容積オーバーゆえ、そこは着替え類・薄手のフリースとヒートテックの上下長物、厚手のフリース靴下などの重ね着と、コンパクトなシルクのシーツおよび、60/40の小タープを上がけにシュラフカバーの代用として対応することにした。



源流域は遡上すれば遡上するほど沢幅が狭くなりゴロタ石と巨岩の世界で、テントを張るような平らなところはまったく無く、岩と岩の隙間を利用・工夫するしかないのだった。そんな悪条件下でこそハンモック・テントは大活躍するのである。

岩と岩の隙間に太めの流木を突き刺し、中くらいの岩を当てがい角度を調整し、小さな石を隙間に差し込んで流木を固定する。
4m幅と高さ1.5mのスペースさえ確保すれば、たとえ足元に沢水が流れようが、デコボコのゴロタ石が転がっていようが、安眠間違い無しの極楽寝床パラダイス・ホテルの出来上がり。ただし、沢風の流れとテント内への風の進入には気を配る必要がある。
いくら熱い夏とはいえ、夜風に吹かれ続けると、それはそれで結構身体を冷やし肌寒く、下手をすれば夏風邪をひくハメになってしまう。蒸し暑い真夏の夜にタイマーをかけ忘れ、扇風機に一晩中当たって風邪をひくそれと同じことなのだ。
考えてみれば当たり前で、なぜならハンモックは、まったく風の通らない蒸し暑い熱帯ジャングルの条件下で暮らす人たちの寝具なのだから。 
ハンモック・テントは、ただ吊り下げるのではなく、木陰や岩陰など風当たりを考え、創意工夫のスペース取りがそれなりに必要とされるのだが、風への対応さえ外さなければ、複雑なフィールドにおいて、快適この上ないパラダイス・ビバーグ・寝具として、多くの可能性を示してくれる。



2013年9月7日土曜日

ヤドカリ人生


琉球國 那覇 大道 
ヤドカリ・ハウスに来てはや、まる4年になろうとしている。


2009年秋10月、友人にもらった真っ赤なVWゴルフのステーションワゴンに、遊び道具から絵描きの道具、パソコンをはじめ仕事の道具、ギター2本、鍋カマ・キッチン用具、そして衣装類の数々を隙間なく詰め込み、組み上げたフォールディング・カヤック「ベルーガ」の中に、ウッドWパドル3本とキャンプ道具の全てをブチ込み、担ぐだけ担いだ積載オーバー・シャコタン状態で、東京〜若狭湾〜神戸〜琉球・那覇へと流れ着いたのだった。
 
4年とはいえ、1ヶ月のうち、そのほとんどは理由(わけ)あって東京〜奄美の活動に重きがあり、那覇のヤドカリ・ハウスには月平均5〜6日間の滞在でしかなかった。

約10年間にも及んだサバニ活動も、旅仲間7〜8人による2010年の与那国〜西表〜石垣〜宮古〜350km航海、一昨年2011年の沖縄〜奄美〜トカラ〜宮崎(日南)油津港〜840kmの単独(伴走船無し!)サバニ旅・大航海にての到達感により、サバニへの情熱が今現在、一時的に少し冷め始めている。というより、新たな、もっと自由で素朴、かつ男たち少人数での自立したサバニ旅を模索している、と、個人的には考えている。
昨年、フォールディング・シングル・カヤックで7〜8日かけ奄美・カケロマの海を漕いだ。久しぶりのパーソナルな、自由で自立した自己完結・海旅でその事に目覚めた。
   
嗚呼、我が師匠よ 永遠なれ!

オーストラリアに旅立った娘の置きみやげで今現在、半分「物置」と化した琉球ヤドカリ・ハウスだが、5本のギターに囲まれた残り半分の秘密基地的小部屋は、しっかりとそのパラダイス機能を維持しているのだった。







2013年8月29日木曜日

海を航る者


その情熱 
舟を漕ぎ、海を航る者たちの「情熱」を、以前 描いたことがある。 
2004年の秋、奄美の浜辺でキャンプをしていたら突然連絡が入り、沖縄から若者・松永太郎が一人やって来た。
聞けば、来年(2005年)の始めに、沖縄・勝連(かつれん)の若者たちでの演劇舞台の美術と、そのシンボルマークの相談だった。
目の前、サンゴ礁の際に立ち崩れる 大きな白波と、遠く水平線に沈む夕陽のオレンジに輝く光りの中で、そのおおまかな趣旨とストーリーを聞いた。 
かつて、琉球の若者たち「レキオス」は、舟を作り、海を越え、多くの国々を航るなかで、何もなかった琉球の島々に、三味線、太鼓や踊り、酒造り、機織り、染織、イモや砂糖キビ、稲作、ヤギ、黒豚、牛や馬、炭作り、石を切り積む城堰、および家屋の建築技術、そしてサバニ舟やその漁法、ヤンバル船の造船技術と航海術など、多くの諸外国の大切な文化を学び、命をかけて持ち帰り、それらを琉球独自の文化として進化させ、再構築していったのだった。 
それらの出来事を、エイサーを交えた組踊りというスタイルで、演劇を構成するとのこと。
偶然にも、2~3日前、白波と沈む夕陽を眺めながら、かつての奄美の若者たちは、この白波をものともせず大海原を越え、遠く水平線の向こうにある見知らぬ國へと航り、衣食住にまつわる多くの豊かな文化を持ち帰ってきたのだと、ひとり、数百年の昔へと想いを馳せていたのだった。
「レキオス」の話を聞き、その場でペンを走らせ、クロッキーブックにひとつのマークを描いた。

サンゴに囲まれた美しい海を越え、方位を知る太陽と月を常に見定め、はるか遠くの見知らぬ世界を目指す、若者たちの希望に燃える情熱。 
その燃えさかる「情熱」の炎を、「まつげ」とし、
天の方位を知る「太陽」と、航る海原の潮の挙動を教える「」とで、遠く水平線をみつめる若者たちの「瞳」を描いた。
陽沈む西へと向かえば島々を伝い 明(みん)の國へとたどり着く。帰りは陽出づる東へと向かえば、琉球の島々を伝い琉球本島や奄美の島々へと戻り着くのである。また、島々間の潮の流れや、サンゴの海の潮の満ち引き潮位は、常にその日の月の形を注視することで知るのである。 
また、現代の様に、安全を約束された旅ではなく、全てが己の知識と体力のみを基軸として、未知の大海原を航ってゆくのだった。生きて帰ることを決意するも、家族や友人たちとの暫(しば)しの別れを胸奥にて涙しながら、それでも美しいサンゴの海とその故郷(ふるさと)を船出する熱い想い。
そのあふれる「」を白波とし、生まれ育ててくれた故郷(ふるさと)の忘れえぬ「美しい海」への別れと回帰する熱い想いを、目頭に満たしたのだった。 
これが、海を航る者たちの見つめる世界 ということを伝えた。

(後日談)
翌朝、また松永太郎が浜辺にやって来た。
海を航る者たちの想いを、過去 現在 未来 に分け おおまかな舞台美術のイメージ・ラフスケッチを3枚描いた。

開けて2005年の1月29日、那覇市民会館の大ホールでの初演に招待される。

配布されたパンフレットには、
琉球放送創立50周年記念 現代版組踊[大航海レキオ・REQUIOS]
監修:宮本亜門/演出:平田大一/音楽:松永太郎
と、表記されていた。

2時間余りの公演・舞台美術のほとんどが、3枚のイメージ・ラフスケッチをベースに組み立てられていたのだった。

しかし、初演を含め、その後の沖縄各地〜東京・世田谷にわたる5~6回の大公演においても、タイミングなのか、一度たりとも監修:宮本亜門に会ったことがなかった。


ま、ええじゃないか!

(*敬称略)



2013年8月16日金曜日

夏休み 

子どもたちよ、大人たちよ 太陽の下で遊ぶのだ!

ガキの頃から退屈な学校から解放されると、毎日、午後の残された時間をメェいっぱい全開で遊びほけていた。

夏休みに入ると、パジャマのままでラジオ体操をイヤイヤながら寝ぼけ眼(まなこ)でこなし、そのままパジャマの格好で夕方遅く、暗くなるまで山や野原、川や河原で、これでもかと遊び狂っていた。
夏休みの宿題? そんなもん8月末の残り2〜3日で、ブーブー言う姉の助けを借りながら、テキトーにこなすのだった。
 
今年で小学51年生になる、鉄砲玉ヤチャ坊も、やはり鉄砲玉の癖は相変わらずで、脱走するとどこかで大好きな事を全開で遊んでいる。
子どもたちよ、大人たちよ、 
夏休みくらい、テレビとゲーム機のスイッチを切り、好き勝手に外で遊ぶのだ!
野や海に躍り出て、人工的遊具が無ければ無いほど、あらゆるものを観察し、その不思議さに気付き、好奇心が芽生え、大自然の中で豊かな「観察力」と創意工夫という「遊び」を見つけ出すのだよ。




2013年7月25日木曜日

無人島キャンプ~その3

モクマオウのこと 
そして、カンカン・バーナーで「炭」作り

先の太平洋戦争でアメリカ軍は、激戦地となった沖縄を中心に、奄美を含む琉球の島々の焼け野ガ原になった海岸線に、防風林としてモクマオウの木の種、内陸側には成長の早いギンネムの木の種を空中散布して、その焦土の緑化を行った。
その結果、50〜60年と樹命の短い針葉樹・モクマオウの、南国に不釣り合いなトゲトゲしく寒々しい樹形の潅木が、戦後70年近くたった南の島々の海辺に乱立している。
モクマオウは、成長が早いぶん必要な養分を大地から貪欲に吸収するため、その樹木が根を張る周囲の表土には、他の植物はいっさい生息しない。まるでアメリカという国そのままの性格を成しているのだ。


それに比べ、アダンを中心とした自然の生きた海岸線の緑地帯は、ハマボウ、トベラ、モンパの木、蘇鉄(ソテツ)、クワズイモ、ガジュマル、オオタニワタリ、テリハボク、デイゴの木々など、共生を中心とした多様性に富んだ緑地を形成している。
そんな自然の緑豊かな海岸線には、テナガエビをはじめ小さなカワハゼや見知らぬ稚魚たち、鰻(ウナギ)の子どもや群れなすボラの稚魚たちが活生する、いのち豊かな沢が、海へと流れ出ているのだった。


そのような緑豊かな海岸線の砂浜には、大人の拳(こぶし)くらいの大きなムラサキヤドカリや、でっかいハマガニ(シオマネキ)が生息し、その海辺には大きなサンゴ礁が発達して、更なる多くの生態系を繁茂させているのだった。


それは大自然が長い時を重ねて「海」と「森」との「命」を繋ぎ合った、自然の原風景に他ならない。

シーカヤックで南の島々、その海岸線を旅していると、そんな大自然の「命の営み」の実態が、記号としての「文字や言葉」ではなく、自分自身の五感をとおした皮膚感覚の「体験」で理解できるのだ。




海辺の旅や、無人島の砂浜でのビバーク・キャンプでは、少しでもその原風景を取り戻そうと、モクマオウの小枝とその小さなマツボックリの実を、ガンガン燃やし続けている。




上記のモクマオウの歴史的解説では悪役のような紹介をしたが、無人島放浪キャンプにおいては、タープを張る支柱やサイドの補助枝として活用している。また硬い木質のモクマオウの小枝は、火持の良い焚き火の「薪」として、またカンカン・バーナーで作ったモクマオウの小枝の「炭」は、強力な燃料として重宝しているのだった。


カンカン・バーナーで「炭」作り

短く切ったモクマオウの小枝をガンガン燃やすと、その火力は強烈で、1mほどの火柱が立ち上る。縦(たて)に吊るした鰻(ウナギ)の蒲焼きだって可能?かもしれない。高額な市販の化石燃料ストーブ・バーナーや、あのハイスペック火力のMSRウィスパーライトよりもすさまじい、カメキチ・カンカン・バーナーのその火力をご覧あれ。
そうそう、着火について一言。もちろんアダンの枯れ葉や小枝を集めての、自然素材現地調達・着火もすばらしいのだが、「着火材」なるモノも平行して使うことを薦める。
大雨の中、しかも風ふく寒さの無人島では、マッチ1本からの技巧優先・哲学的価値観よりも、さっさと火を熾すことが最優先されるのだ。化石燃料系アレルギーの人には、自然素材のリサイクル「着火材」だって探せばあるのだから。

めんどくさいよ、雨風の中、ビショ濡れ小枝に火を熾すって。



 ファイヤー〜!

いかが
恐るべし モクマオウの燃焼火力と
カメキチ・カンカンバーナーの燃焼効率! 


さて、ここで  
カメキチ・カンカン・バーナーによる作りを紹介しよう。

上記の小枝が燃えている間に、親指くらいの太さのモクマオウ小枝をカンカン・バーナーの内径の長さに短く切り割っておく。薪を缶の縦に詰める場合は缶の高さの2/3くらいに切っておくのがベスト。

1;上記・ウナギ1本姿焼きの炎が収まって出来上がった火床・熾き火の上に、 
短く切り割った小枝を隙間なく詰めていく。


2;徐々に煙が立ち上り、炎が燃え上がってきたら、 
缶の下・三角の空気取り入れ口と、上部の燃焼炎排出口を 
一気に切り取った缶蓋(フタ)で塞ぐ。 
すると白い煙がさらにモクモクと立ち上ってくる。

3;熾き火の火力にもよるが15〜20分すると白い煙が収まり 
「炭」が出来上がる。



 4;下の三角・空気取り入れ口を塞いだままでも、隙間からのわずかな空気による燃焼で、 
小1時間ばかり炭火が燃え続ける。餅や魚を焼いたり、 
汁物を調理するのはこのタイミングがベスト 
炭が多すぎる場合は、取り出して砂の中に埋めれば消火でき、またいつでも炭として使えるのだ。


 5;炭の火力を上げるには下の三角・空気取り入れ口を開ける。 
炭は一気に赤々と燃え、300〜500ccの水が2〜3分でアッという間にお湯が沸く。


6;裏技として、炭火で焼き上がった魚を、その次の炭作りの煙で燻(いぶ)しておくと、 
2〜3日はハエもたからず常温(日陰)での保存が可能なのだ。

そんな「火遊び」に夢中になっていたら、いつの間にか、 
西の空に夕陽が沈んでいた。


明日も 晴れますように。