2013年9月11日水曜日

外遊びの原点


22才と57才の夏



誰が何と言おうと、「南の島」と「夏」が好きだ。



ケツの青いガキの頃、5~6人の同じ歳の子どもたち同士で団子になり、小さな小川のせせらぎ沿いで、裸同然のビショ濡れ状態で、一日中、泥んこ遊びから虫探しに夢中だった。



小学生の夏休みは、毎日、朝食のトーストを喰わえてパジャマのまま家を飛び出し、近所の子どもたち15~20人ほどで広場に集まり、三角ベース(野球)やチャンバラ、カン蹴リ、2チームに分かれての駆けっこリレー、騎馬戦などなど、昼飯も忘れて暮れなずむ夕刻まで、必死になって近くの野山を駆け回っていた。風呂あとの夕飯時は、遊び疲れからウトウト居眠りしながらの食事で、自分の寝床フトン手前で気絶する毎日を送っていた。



二十代になった学生最後の夏休み4~5日間は、友人とふたりバイクで島中を走り回り、海辺の砂浜で野宿を楽しんだ。その時のキャンプ道具は、友人の兄から借りたオレンジ色の三角テントと、小さなケトルに赤い灯油ランタン1個。そしてわたしが小学生のとき山中で拾った、アメリカ軍御用達ブッシュナイフ1本とポケットマッチひとつ、それと単1電池が4本も入るデッカい災害時用懐中電灯だった。




1977年・孝志 パンツイッチョ 22才の夏



砂地での設営に苦労した、はじめての三角テントも太陽照りつける日昼はオーブン状態と化し、夜風の通らぬ真夜中はサウナ地獄だったので4~5日間は、ただの荷物置き場になっていた。それでも潮風の中、やっと熾した焚き火でお湯を沸かし、インスタントのコーヒーやラーメンを食する楽しさをはじめ、水平線に沈む真っ赤な夕陽の美しさと、日没後の虹色に七変化する天空の大パノラマ。赤々と燃えて消えゆく熾き火の温もり、真夜中に見上げた満天の星空の輝きと、ふと目覚めた深夜の満月に照らし出された幻想的な浜辺の月明かり。それらの体験と感動は、その後の私の40年近くに及ぶアウトドア・ライフ活動の原点となったのだった。



社会人になって、得意とするイラストレーションを基軸に、ポスターや雑誌・書籍のレイアウトなど、グラフィックデザイン・アートワークに携わりながらも、ひと夏の休日のほとんどをバイクに跨がり野山を駆け巡り、原野や河原での野宿を繰り返していた。

そして30〜40代、娘の夏休みには愛車ミニのルーフキャリーや小さなリア・トランクに、なんとフォールディング・カヤックをも積載し、家族3人分の衣食住キャンプ道具を、これでもかというくらい詰め込んで、まる1週間にもおよぶ移動型〜秘湯めぐりの湖畔キャンプを敢行した。

50代後半になった小学51年生は、最新鋭のフォールディング・カヤックを手に入れ、30代からの20数余年来、相も変わらず南の海を漕ぎまくり、幾つかの島々と無人島を渡りつつ、フィールド・スケッチを通して「感動する日々」を生きている。




2012年・小学50年生の夏 孝志57才
やはり パンツイッチョ!



友よ 

真剣に 遊んでいるかな
元気に 生きているかい?









2013年9月10日火曜日

源流ビバーグ


巨岩と渓谷 

行けども行けども切り立つ崖と、行く手をさえぎる巨岩の渓谷だった。 


40リットル/12~13kgのザックを背負い、大井川の源流へと路無き路を遡上していった。某フリーマガジンの源流渓谷釣り取材である。
編集者曰(いわ)く「場所によっては全身ズブ濡れの、泳ぐ覚悟で装備してきて下さいね。また、崖や岩場をよじ登るから荷物は少なめにお願いします」との事前警告どうり、完全防水パッキング、かつ2泊3日の野営ビバーグ装備総重量・10kg+食料&水2~3kgにてのパッキングとなる。
フレーム・テントを外し、久々にハンモック・テントと軽量ヒルバーグ・小タープのみでのビバーグである。ソロ用クッカーと着替えのウエアー類、それにスケッチ道具で40リットルのザックは、アッという間に満杯になってしまった。 
標高800あたりから登り始めて1300mの源流まで遡上するという。夏場とはいえ標高1300mの夜、しかも沢の吹き下ろしの風を想うと、スリーシーズン用シュラフは欲しいところだが、すでにザックは容積オーバーゆえ、そこは着替え類・薄手のフリースとヒートテックの上下長物、厚手のフリース靴下などの重ね着と、コンパクトなシルクのシーツおよび、60/40の小タープを上がけにシュラフカバーの代用として対応することにした。



源流域は遡上すれば遡上するほど沢幅が狭くなりゴロタ石と巨岩の世界で、テントを張るような平らなところはまったく無く、岩と岩の隙間を利用・工夫するしかないのだった。そんな悪条件下でこそハンモック・テントは大活躍するのである。

岩と岩の隙間に太めの流木を突き刺し、中くらいの岩を当てがい角度を調整し、小さな石を隙間に差し込んで流木を固定する。
4m幅と高さ1.5mのスペースさえ確保すれば、たとえ足元に沢水が流れようが、デコボコのゴロタ石が転がっていようが、安眠間違い無しの極楽寝床パラダイス・ホテルの出来上がり。ただし、沢風の流れとテント内への風の進入には気を配る必要がある。
いくら熱い夏とはいえ、夜風に吹かれ続けると、それはそれで結構身体を冷やし肌寒く、下手をすれば夏風邪をひくハメになってしまう。蒸し暑い真夏の夜にタイマーをかけ忘れ、扇風機に一晩中当たって風邪をひくそれと同じことなのだ。
考えてみれば当たり前で、なぜならハンモックは、まったく風の通らない蒸し暑い熱帯ジャングルの条件下で暮らす人たちの寝具なのだから。 
ハンモック・テントは、ただ吊り下げるのではなく、木陰や岩陰など風当たりを考え、創意工夫のスペース取りがそれなりに必要とされるのだが、風への対応さえ外さなければ、複雑なフィールドにおいて、快適この上ないパラダイス・ビバーグ・寝具として、多くの可能性を示してくれる。



2013年9月7日土曜日

ヤドカリ人生


琉球國 那覇 大道 
ヤドカリ・ハウスに来てはや、まる4年になろうとしている。


2009年秋10月、友人にもらった真っ赤なVWゴルフのステーションワゴンに、遊び道具から絵描きの道具、パソコンをはじめ仕事の道具、ギター2本、鍋カマ・キッチン用具、そして衣装類の数々を隙間なく詰め込み、組み上げたフォールディング・カヤック「ベルーガ」の中に、ウッドWパドル3本とキャンプ道具の全てをブチ込み、担ぐだけ担いだ積載オーバー・シャコタン状態で、東京〜若狭湾〜神戸〜琉球・那覇へと流れ着いたのだった。
 
4年とはいえ、1ヶ月のうち、そのほとんどは理由(わけ)あって東京〜奄美の活動に重きがあり、那覇のヤドカリ・ハウスには月平均5〜6日間の滞在でしかなかった。

約10年間にも及んだサバニ活動も、旅仲間7〜8人による2010年の与那国〜西表〜石垣〜宮古〜350km航海、一昨年2011年の沖縄〜奄美〜トカラ〜宮崎(日南)油津港〜840kmの単独(伴走船無し!)サバニ旅・大航海にての到達感により、サバニへの情熱が今現在、一時的に少し冷め始めている。というより、新たな、もっと自由で素朴、かつ男たち少人数での自立したサバニ旅を模索している、と、個人的には考えている。
昨年、フォールディング・シングル・カヤックで7〜8日かけ奄美・カケロマの海を漕いだ。久しぶりのパーソナルな、自由で自立した自己完結・海旅でその事に目覚めた。
   
嗚呼、我が師匠よ 永遠なれ!

オーストラリアに旅立った娘の置きみやげで今現在、半分「物置」と化した琉球ヤドカリ・ハウスだが、5本のギターに囲まれた残り半分の秘密基地的小部屋は、しっかりとそのパラダイス機能を維持しているのだった。