その情熱
舟を漕ぎ、海を航る者たちの「情熱」を、以前 描いたことがある。
2004年の秋、奄美の浜辺でキャンプをしていたら突然連絡が入り、沖縄から若者・松永太郎が一人やって来た。
聞けば、来年(2005年)の始めに、沖縄・勝連(かつれん)の若者たちでの演劇舞台の美術と、そのシンボルマークの相談だった。
目の前、サンゴ礁の際に立ち崩れる 大きな白波と、遠く水平線に沈む夕陽のオレンジに輝く光りの中で、そのおおまかな趣旨とストーリーを聞いた。
かつて、琉球の若者たち「レキオス」は、舟を作り、海を越え、多くの国々を航るなかで、何もなかった琉球の島々に、三味線、太鼓や踊り、酒造り、機織り、染織、イモや砂糖キビ、稲作、ヤギ、黒豚、牛や馬、炭作り、石を切り積む城堰、および家屋の建築技術、そしてサバニ舟やその漁法、ヤンバル船の造船技術と航海術など、多くの諸外国の大切な文化を学び、命をかけて持ち帰り、それらを琉球独自の文化として進化させ、再構築していったのだった。
それらの出来事を、エイサーを交えた組踊りというスタイルで、演劇を構成するとのこと。
偶然にも、2~3日前、白波と沈む夕陽を眺めながら、かつての奄美の若者たちは、この白波をものともせず大海原を越え、遠く水平線の向こうにある見知らぬ國へと航り、衣食住にまつわる多くの豊かな文化を持ち帰ってきたのだと、ひとり、数百年の昔へと想いを馳せていたのだった。
「レキオス」の話を聞き、その場でペンを走らせ、クロッキーブックにひとつのマークを描いた。
サンゴに囲まれた美しい海を越え、方位を知る太陽と月を常に見定め、はるか遠くの見知らぬ世界を目指す、若者たちの希望に燃える情熱。
その燃えさかる「情熱」の炎を、「まつげ」とし、
天の方位を知る「太陽」と、航る海原の潮の挙動を教える「月」とで、遠く水平線をみつめる若者たちの「瞳」を描いた。
陽沈む西へと向かえば島々を伝い 明(みん)の國へとたどり着く。帰りは陽出づる東へと向かえば、琉球の島々を伝い琉球本島や奄美の島々へと戻り着くのである。また、島々間の潮の流れや、サンゴの海の潮の満ち引き潮位は、常にその日の月の形を注視することで知るのである。
また、現代の様に、安全を約束された旅ではなく、全てが己の知識と体力のみを基軸として、未知の大海原を航ってゆくのだった。生きて帰ることを決意するも、家族や友人たちとの暫(しば)しの別れを胸奥にて涙しながら、それでも美しいサンゴの海とその故郷(ふるさと)を船出する熱い想い。
そのあふれる「涙」を白波とし、生まれ育ててくれた故郷(ふるさと)の忘れえぬ「美しい海」への別れと回帰する熱い想いを、目頭に満たしたのだった。
これが、海を航る者たちの見つめる世界 ということを伝えた。
(後日談)
翌朝、また松永太郎が浜辺にやって来た。
海を航る者たちの想いを、過去 現在 未来 に分け おおまかな舞台美術のイメージ・ラフスケッチを3枚描いた。
開けて2005年の1月29日、那覇市民会館の大ホールでの初演に招待される。
配布されたパンフレットには、
琉球放送創立50周年記念 現代版組踊[大航海レキオ・REQUIOS]
監修:宮本亜門/演出:平田大一/音楽:松永太郎
と、表記されていた。
2時間余りの公演・舞台美術のほとんどが、3枚のイメージ・ラフスケッチをベースに組み立てられていたのだった。
しかし、初演を含め、その後の沖縄各地〜東京・世田谷にわたる5~6回の大公演においても、タイミングなのか、一度たりとも監修:宮本亜門に会ったことがなかった。
ま、ええじゃないか!
(*敬称略)
子どもたちよ、大人たちよ 太陽の下で遊ぶのだ!
ガキの頃から退屈な学校から解放されると、毎日、午後の残された時間をメェいっぱい全開で遊びほけていた。
夏休みに入ると、パジャマのままでラジオ体操をイヤイヤながら寝ぼけ眼(まなこ)でこなし、そのままパジャマの格好で夕方遅く、暗くなるまで山や野原、川や河原で、これでもかと遊び狂っていた。
夏休みの宿題? そんなもん8月末の残り2〜3日で、ブーブー言う姉の助けを借りながら、テキトーにこなすのだった。
今年で小学51年生になる、鉄砲玉ヤチャ坊も、やはり鉄砲玉の癖は相変わらずで、脱走するとどこかで大好きな事を全開で遊んでいる。
子どもたちよ、大人たちよ、
夏休みくらい、テレビとゲーム機のスイッチを切り、好き勝手に外で遊ぶのだ!
野や海に躍り出て、人工的遊具が無ければ無いほど、あらゆるものを観察し、その不思議さに気付き、好奇心が芽生え、大自然の中で豊かな「観察力」と創意工夫という「遊び」を見つけ出すのだよ。