2011年10月28日金曜日

「’69年のスピリッツ」よ 再び!

ひさびさに '69 WOODSTOCK を見た。
サンタナ、ジャニスはもちろんのこと、ジミヘンのアメリカ国家ギターソロ〜そして続くパープルヘイズには、改めて鳥肌が立った。

サンタナの次ぎに登場する Sly & Family Stone の 「I want to take you higher!」のボーカルによるMCがサエている。「higher!と叫び、右手で高くピースサインを上げろ!」と暗闇の中の60万人に向け叫びつづけ、最後には全員一体となり右手を高々と上げ 「higher!」と大合唱をくり返すのである。
ベトナム戦争まっただ中で、未来の見えないアメリカの若者たちの苦悩とその時代の叫び、そして「Freedom」という魂の解放が、見事に記録されていたことに改めて感動した。
この1969年8月の60万人によるウッドストックの出来事をキッカケにして、アメリカの多くのミュージシャンや若者たちは立ち上がり、声を上げ、行動を起こし、国策ベトナム戦争と時のニクソン政権にNOを叩き付けるのだった。
ウッドストックでの愛と平和と音楽による、若者たちの精神的・魂の解放と連帯感は、やがて同’69年10月のアメリカ全土の200万人(サンフランシスコとワシントンで50万人)による反戦デモへと広がり、翌70〜71年にかけてのワシントンDCにおける50万人反戦デモへ、そしてその活動はベトナム戦争終結とニクソン政権の終了を勝ち取るのである。
「ホテル・カリフォルニア」で イーグルス 唄うところの 「’69年のスピリッツ」である。

さてさて、2011年の日本は、どうだろう。
これだけ多くの人々を苦しめ、これから何十年と迫り来る放射能汚染の不安をまき散らす「原発事故」に対して、見ザル、言わザル、聴かザル、を決め込み、目の前の危機に大してNOもSTOPも、何の問題提起も発しない多くの玉無しミュージシャンと若者たち。
そして、今となっては日本国民の70〜80%が脱および反原発に意識改革しはじめているにもかかわらず、その動きに対して何も伝えないテレビ・大手新聞界のマスコミ世論ねつ造操作。
風評被害という言葉をあやつり、汚染された食品を国民に強要する国家と3-11以後の前記マスコミたちが操作する社会風潮。
おかしい。
まるで先の大戦時における日本帝国大本営と、戦争批判をすると非国民扱いする時代の社会風潮、そして大本営と結託してエセ情報をタレ流し、国民を破滅へと導いた大手新聞・マスコミ界たちの再来である。
誰が放射能で汚染された食物を我が子に与えるだろうか? 親が子供の命を守る行為は、活けとし生けるもの全ての本能なのだ。
はっきり言ってしまおう。放射能で汚染された・もしくはその可能性のある食べ物は、決して子供たちに与えてはならないと。
これから先、25年の未来は、今一度「チェルノブイリ原発事故」から学び取るしかないのだ。残念なことだが、ここに至っては原発事故の重大さと、そこに迫る危機を知り、そして声を上げて伝え合い、ひとり一人が危機意識をもって次ぎなる時代に向けて行動すべき時である。
’69年のスピリッツよ再び!  めざせ アカルイミライ !  を。

2011年10月23日日曜日

イシャイラズな「アロエ」

  外駆けずりまわるガキの頃、ヒザやヒジをはじめ手のひらなどにスリキズやケガを負うたび、赤チンキや激痛しみこむ黄色いヨードチンキをよく塗りたぐられた。
 マッチ箱をいつもポケットに忍ばせていたニンジャ小僧は、得意の火遊び「火遁の術」でよくシャツを焦がし、たまに腕や指先などをヤケドすることもあったのだ。
 そんなとき、毋は庭先からアロエを切り分け、オロシガネでみどりの皮ごとスリおろしてガーゼにくるみ、患部に当ててくれるのだった。
 ヤケドにはアロエが定番で、胃腸の弱い毋などは皮ごとスリおろして、小さなガラスコップに移し、それをイッキに飲み干すのであった。毎回、気合いを入れ飲むたびにおそろしくニガそーな顔をして、ビビるワタシに呪文のように「これはイシャイラズと云って、いろんな病気に良く効くのよッ!」と、話しかけるのであった。
 アロエで育てられたワタシは、シーカヤックやサバニでの海旅で真っ赤に日焼けした仲間を見るにつけ、事あるごとにアロエを探しまわり、トゲ部分を取り除いて角を落とし2枚に切り分けて、中の透明なゼリー面をヌルヌル塗りたぐりながら、「これはイシャイラズと云って、いろんな病気に良く効くのよッ!」と、みんなに話しかけるのである。



2011年10月7日金曜日

[反原発]の狼煙(のろし)

3月11日以来、[反原発]の声を上げている。


娘がうまれた翌年の1988年4月に、前々の年’86年4月に起きたチェルノブイリ原発事故を特集した雑誌DAYS JAPAN/デイズジャパン創刊号の「4番目の恐怖」に出会って以来、幾つかの原発の資料や原発本を読み、広瀬隆さんの書いた「東京に原発を/改訂版」を読み解くうちに、子供たちの未来を憂い[反原発]を声に出すようになった。
その年’88年の8月号デイズジャパンはたてつづけに今日における福島原発の多くの欠陥を指摘し、爆発事故の可能性を確信を持って警告した特集「原子炉爆発のXデー」、そして翌’89年の5月にはチェルノブイリ原発事故から3年の経過をもとに、それでも隠され続ける多くのデータを収集し、原発事故のその後の恐ろしさを綿密な取材データをもとに「チェルノブイリ汚染の大地」の特集を組んだ。それはわれわれに原発事故がもたらす放射能汚染の恐ろしさとその警告を、だれもが何度でも読み返し、そして見て解るように写真や解りやすいデータ表を駆使した雑誌という手近なかたちで発信しつづけられていたのだった。
そして、今年の3月11日、彼らが警告していた通り福島第一原子力発電所にて爆発事故が起きた。
今回の福島における原発事故は天災ではなく、明らかな人災である。原子力推進派が原発事故に対して責任逃れのようにくり返す「歴史上、類を見ない地震と津波による想定外の事故」というのは、真っ赤なウソである。なぜなら、この原発メルトダウン事故の可能性を、23年前の前記・雑誌DAYS JAPAN/デイズジャパンの原発特集執筆者・広瀬隆氏を始め、遡ること30〜40年前から京都大学原子力研究所の小出裕章氏など、数多くの研究者・見識者たちがその危険性を想定し、今日の放射能汚染の恐ろしさの数々を警告し続けていたのである。にもかかわらず、原子力推進派の東電及び電通をはじめとするマスメディア/テレビ・大手新聞社たちは、その警告を無視するどころか、一般国民への反原発情報の隠蔽をも国策の一環として共謀し続け、福島原発事故から半年余り過ぎた今現在でも、その隠蔽作業は経産省及び電事連の御旗の元に行われ続けられているのである。
その日・3月11日を境に、3〜5月の3ヶ月間、とりあえず浜岡原発の即時停止運動にスイッチを切り替え、内閣府宛てに「浜岡原発の即時停止」署名運動の資料と浜岡原発の危険性に関するウエブサイト及び即時停止署名フォーマットを多くの仲間たちに送り続けた。

そして志を共にする仲間たちに声を掛け合い、くり返される反原発/脱原発デモの多くに参加し、狼煙(のろし)を上げ、行進し、声を出し続けている。


2011年10月2日日曜日

真実は「旅」にあり。

口之島 南西7km沖
 
 沖縄に毎年6月の下旬から7月上旬に吹く南風を、カーチベー(夏至南風)と呼び、南の温かな風が梅雨前線を北へと押し上げる。この風が吹くと沖縄・奄美地方は一気に梅雨明けとなり、まぶしい太陽の光が降り注ぐ初夏へと季節を変える。
 カーチベーは10日から14~15日の間吹きつづけ、はじめの3~4日は10m/秒・前後の強い風が吹き荒れるが、残りの10日間は心地よい温かな風が吹くと同時に天気は安定し、海は穏やかな6~7m/秒の南西の風が吹き続ける。かつての沖縄・奄美の人々は、サバニという7~8mの木造小舟に帆を張り、この風を利用して互いの島々を行き来していたのだ。
 ここ数年、7~8人の仲間たちとサバニを漕ぎ、帆にカーチベーの風を受けて沖縄・奄美の島々を航る旅を幾つか重ねてきた。そのサバニ旅の集大成として、今年、ここ沖縄から、サバニの舟材である宮崎の飫肥(おび)杉の積出し港・油津(あぶらつ)の日南市までの800kmを目指し、6月28日に沖縄の本部(もとぶ)港を漕ぎ出た。途中、吐噶喇(とから)列島の宝島にて天候不順の7日間、そして台風6号避難のため屋久島60km手前の口之島(くちのしま)に10日間、計17日間も島々に閉じ込められたのだった。
 そんな中、口之島での台風避難生活10日間の話。
 台風6号が接近してきたので翌日からの台風波のウネリを避け、ここ口之島にて早々とサバニを陸揚げしてガードレールなどに固定しようと、避難・停滞対策を行なっていた。そこへ島の漁師4~5人が駆け寄って来て、舟の避難場所のアドバイスや固定ロープの取り回しなどを手伝ってくれたのだ。ありがたいことに、台風が通過するまで空いてる一軒家を提供するとのこと。後で聞いた話では、全室4部屋の上げてある畳を敷き直し、ガスボンベを運んで設置し、水道・電気をわざわざ開設してくれたのであった。しかも、露天風呂・温泉へと案内され、そこへ通う足として2トン・トラックと4人乗りの軽ワゴンの車2台を「しばらく使っていいヨ」と、これまた、こころよく貸してくれるのである。
 圧巻は、その日の夕刻から、島民の幾人かが入れ替わり立ち替わり、栄養ドリンクやスポーツドリンクなどの飲み物とお酒、そして地場産の野菜や魚、はたまたお米5kgやカップ焼きそば1ケース10個入りを、そして翌日にはなんと新品の下着やアロハ・シャツなど洋服まで届けてくれるのだ。滞在中、誰かしらが野菜やお酒、そして飲み物やお菓子などを、ほぼ毎日といっていいほど届けてくれるのであった。
 旅の途中、奄美の島々や宝島など吐噶喇の多くの島でも、その都度、心温まる多くの親切に助けられた。
 ある島では、見知らぬオジイがやはり栄養ドリンクと、ビールと缶コーヒーをクーラーボックスに満杯の氷詰めで届けてくれた。その夜は、ガスコンロ、金アミ、塩・コショウ、焼き肉のたれ、風よけの段ボール持参で、オジイが仕留めたイノシシ肉のバーベキューを、全員たらふくご馳走になった。また、とある島では、日焼けで赤くなっている僕たちの肌の様子を見て、老夫婦のお二人がご自宅の庭からアロエをドッサリ刈り取って届けてくれたりと、いたせりつくせりの「充足の日々」を送るのであった。
 そんな多くの親切にささえられ、我々の、2011年・沖縄~宮崎800kmサバニ旅は、7月28日、まる1ヶ月(内17日間は天候不順のため停滞)の航海を経て宮崎・日南市の油津港に無事・完漕到達したのである。
 その昔、かつての島々をサバニで渡り継いだ先人たちも、同じような温かいもてなしを各島々で受けていただろう。そして、そのご恩を受けた先人たち自らも、海の彼方から身体を張ってやって来る健気な人々にたいして、出来る限りのもてなしを施していたに違いない。日々~ギブ&ギブが根底に流れる社会の豊かさ~ということに気付かされた「充足のサバニ旅」だった。

真実は「旅」にあり。「知る」ことの喜び。