私は62年前の昭和30年に奄美大島の名瀬市(現・奄美市名瀬)に生まれた。
父と母の故郷、奄美の南部・瀬戸内町、加計呂麻の西阿室集落に一本のガジュマルの樹がある。
私が幼いとき、この樹の一番下の龍の姿をした大きな枝には手作りのブランコが架けてあり、5〜6人の子供たちがいつも取り合って遊んでいた。
幼い子供たちにとって地上2mの高さから揺れるブランコは充分な高さであり、足下にある幅・深さ30cmほどの側溝を揺られながら越えるちょっとしたスリルに満ちていた。
樹のたもとで、なつかしそうに見上げながら 母 曰く、
「母ちゃんが子供の時からこの樹はこの大きさだったよ…」
今からさかのぼること500余年前・江戸時代初期の薩摩藩支配が始まる1600年頃まで沖縄と奄美の島々は「琉球國」という那覇・首里の尚家を国王とするひとつの小国家だった。
当時の琉球は、タイ・カンボジアやマラッカ、フィリピン、そして明朝時代の中国や韓国・朝鮮、そして倭国・日本など近隣諸国との交易を中心とした海洋貿易国として繁栄していた。
アジアの諸外国をはじめ遠くヨーロッパの国々からも「蓬萊国・ほうらいこく」として憧れられていた王国時代の琉球は「戦い」を否定し、易きことを互いに分かち合う「交易」を尊重し合い、王家を中心に万民に至るまで豊かな海洋交易社会を謳歌していたのだった。
その社会の根幹には、ティダ(太陽)神とニライカナイ(海の彼方より幸せを運んでくる海来神)を信仰する、自然崇拝の神々と共に暮らす祈りの日々が存在していた。
集落のほとんどは海辺にあり、その集落形成には神々が宿る多くの祈りの場所「立神・タチガミ」「拝山・ウガミヤマ」そしてガジュマルの巨木が立つ「拝所・ウガンジョ」の三カ所が定められていた。
ニライカナイの神が最初に降り立つ場所として集落の海岸もしくは磯場にある大きな岩や小島を「立神」と呼び、朝に夕に日々崇めていた。「立神」に降り立った神は近くの岬を通り集落裏山の「拝山」を介し、集落中心の「拝所」に降りてくるのであり、その際の広場への降臨目印として「ガジュマル」の樹が存在していたのだ。
ガジュマルは「神の宿る樹」として大切にされ、一本の枝さえも人の手で切ることは許されなかった。その巨樹の下に人々は集い、祈りや祝いの宴の時には陽射しから大きな木陰をつくり、雨風をさえぎり、台風の荒れ狂う強風を和らげる役目をも担っていた。
巨樹老木「ガジュマル」の姿は、永き時を有するものに対して畏敬の念をいだくことを教え、それは海洋性集落社会において歳を重ねた老齢者を敬い崇め大切にする「学び」 として存在していたのである。
美しき琉球よ 永遠なれ