野外でよく蚊取り線香を焚いたリ、ハッカ油スプレーならまだしも薬物系防虫スプレーを散布したり体に塗ったりと、蚊やアブ、ブヨ対策として悪戦苦闘している人をよく見かける。
訳 解んねえぇ〜。
野外は常に空気は流れ動き、蚊取り線香は風と共に去り、蚊に悪い薬物系スプレーは人体にだって悪いはず。それを体中に塗りたぐっている。
どちらかというと我々人間が、彼ら虫たちの領域に割り込んでいるので「すみません・チョイとおじゃまします」ぐらいの謙虚な気持ちが有っていいと思うゼ。
ゴジラが、自分の部屋に断わり無しに乱入してきて、デッカい焚き火を燃やし始め、放射能をまき散らし、ギャおオオォォぉ〜〜とがなり叫び始めたら、ビックリ!腰ぬかすでしょう。虫たちだって「かんべんしてぇェ〜」でしょう。
蚊や虫たちかイヤなら部屋に閉じこもり、ポテトチップスでもカジリながら吉本のくだらないテレビでも観て、ヘラヘラ脳軟化症人生でも送るんだネ。
オレなんか蚊に刺されても「彼らへの所場代」だと諦めているからね。手の甲に止まった蚊を、今度ガマンして ジィィ〜〜ッと観ててごらん。メチャ面白いから。
まず、周りを様子見して安全を確認。口元の注射器をツンツンして皮膚細胞の隙間から毛細血管を探す。そしてケツを上げ、頭をググっと下げつつ注射器を毛細血管にさし込みチュ〜〜ッと血を吸い上げる。するとお尻のおなか部分がみるみるうちに赤味を増し膨らみ、お尻全体が赤くパンパンになったところで「ふんッ、じゃぁねぇェ〜」てなかんじで、風に乗ってどこかへ飛んでゆくんだから。無駄な動き一切無くけっこうイキでクールな奴だぜ。
いいじゃないか、血の一滴ぐらい。所場代・しょ・ば・だい!
2017年12月29日金曜日
蚊
初雪
9〜10年前、南信・駒ヶ根の冬のこと。
大田切川に流れ込む小さな沢を、初雪積もる河原の冬景色を眺めつつ、休憩時の喉の乾き用にと、故郷・奄美から送られてきたタンカンをひとつコートのポケットに忍ばせ、河原に添って1時間ほど歩く。
会社勤めの昼休み時に、弁当片手によく来ていた河原にたどり着いた。
ヒヨドリのつがいや赤いほっぺのウソ、羽毛をまん丸く膨らませたシジュウガラなど多くの野鳥たちが、すっかり葉の落ちた冬の木立の梢の中を飛び交い、凛とした透き通る白い空気のなかにその鳴き声を響かせていた。
その河原を30分ばかりスケッチした後、かじかんだ手でナイフ片手にタンカンを真横に切り、半分を小枝に刺し鳥たちに分けた。
さらに上流へと散歩したあとの帰り道、刺したタンカンを覗いてみれば、ものの見事に中身がキレイに食べ尽くされている。
うれしくなり、また30分かけて、その小枝をスケッチするのだった。
おぉ〜寒ッ!
けど、なぜだか こころは暖かった、初雪降る 駒ヶ根の想い出。
2017年12月12日火曜日
Imagine
Imagine
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...
Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one
想像して…
想像してごらん 天国なんて無いんだと
簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
想像してごらん
全ての人々が
今日という一日を 生きていることを...
想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も 殺される理由も無く
そして宗教さえ無いことを...
想像してごらん
世界中の人々が
平和の中で今という時を 生きていることを...
僕のことを 夢想家だと言うかもしれない
でも そう想っているのは 僕一人じゃないはずだよ
いつかきみも そしてみんながそう想えば
きっと世界は
ひとつになるんだ
想像してごらん 何も所有しないってことを
きみなら 出来ると思うよ
欲張ったり 飢えることも無い
そして 人はみな兄弟だってことを...
想像してごらん
この世界の全ての人々が
あらゆる物を 分かち合っている世界を...
僕のことを 夢想家だと言うかもしれない
でも そう想っているのは 僕一人じゃないはずだよ
いつかきみも そしてみんながそう想えば
きっと世界は
ひとつになるんだ
●
John
君の「夢」そしてその想いを
忘れない
2017・12月9日am10:50〜日本時間
(12月8日pm10:50~NY 時間)
2017年11月13日月曜日
エッ!ここは どこ?
突然のこと!
10月15日の夜、不覚にも救急車にて緊急入院してしまいました…。
カミさんの目の前で突然気を失い、気がついたら白い壁に囲まれた部屋の中で、両手と上半身が何かでベットに固定され、鼻の中に透明の細いチューブが突っ込まれています。
見知らぬ女性が突然カーテンを開けて現れ「気がつきましたか!ご自身のお名前、わかりますか?」と聞いてきたので「?…イ…イトォゥ~タ・ カ・シです…?」と答えた。しばらくして、男性二人がやってきて、茶色い服を着た先頭の男が女性と同じ質問の後に「ここがどこかわかりますか?」と聞いてきたので「?…わかりません…」と告げた。
茶色の服の後ろに立つ青い服の男が女性に何かを話しかけ、女性がベッドの右横にしゃがみ込み、 〝ジョボ ジョボ ジョボ …〟と音を立て、小さな容器に何かの液体を移し替えていた。
その液体の音が頭の中で響く耳元で、その女性が「ここは、トォ~キョ~トリツ、タマ、ソ~ゴ~、イリョォ~、センタァァァ~~ァですよ、ちょっと長いですが覚えてくださいね。」と話しかけてきた。
“ちょっとじゃないですヨ、それ、そォーとォ~長いですよ…”と感じつつ、覚えきれない私はその病院名を再度女性に聞き直した。(つづく・敬称略)
※フィルダーNo36号連載予定だった、SKETCH OF FIELD vol.18「島後(どうご)」は以上の状況、伊東孝志、人生初めての救急車による緊急入院により、次号フィルダーNo37号の掲載となりました。
フィルダー読者の皆様、また、笠倉出版社ご関係者の皆々様、遅載をどうぞお許しあれ。申し訳無き早漏!
偶然日本に居合わせたオーストラリア在住の
愛娘〜あかね〜の祈りと その愛の手に感謝
2017年9月18日月曜日
放浪のすすめ
隠岐ノ島・ジオパーク〜島前(どうぜん)の圧倒的パワーの地殻変動体感カヤック旅を終え菱浦港からフェリー「くにが」にて、次ぎなる島後(どうご)の西郷港へと航った。
視界3〜4kmの霧のなか約1時間の航路を、カヤックで漕ぎ航るときの参考下見ついでに海図と照合しながら、小さな島々や多くの入り江など沿岸を眺めていたらアッという間の1時間が過ぎ、西郷港へ着いたのは午後2時の小雨降るなかだった。
次号の雑誌「フィールダー」連載にてこの島後・ロックンロールな旅を通して出会いたどり着いた、アパッチ・ジェロニモの魂と、レッドツェペリン的ロックな雑誌創りへの情熱の可能性を報告する。
放浪のすすめ
真実は旅にあり 知ることの喜び
ジェロニモ と レッドツェペリン
そして 放浪の喜び
2017年9月3日日曜日
大地の咆哮
今年の夏、一ヶ月シーカヤック漕いで野宿を繰り返した。隠岐ノ島〜島前・島後にては、とてつもない巨大な感動に出会った。
島前の大海原を漕ぎ進み、岬を回り込むたびに覆い被さって来るような天地創造の壮大な600万年にもおよぶ地殻変動の残影、そして幾度となく繰り返された大噴火による七重八重に積み重なった圧倒的な堆積層の剥き出しになった地層断面。
火砕流あとの白色凝灰岩の岩肌が光に反射して真っ白に輝く。噴火による火山灰がいったいどれだけ降り注いだら、そしてどれだけの時と地殻変動の圧力が加えられたらこれだけの堆積層が出来上がるのだろう。その永遠と重なる悠久の時を想うと胸奥が熱くなる。ポンペイ最後の日のヴェスヴィオス大噴火の数万倍の大地の咆哮が聞こえる。
鉄分を含んだ火山性礫岩が酸素と反応して真っ赤になっている。まるで地球のハラワタがむき出しでうごめいた残像がドクドクドクと脳裏によみがえり近寄ると体のなかの全ての血液が熱く沸騰してくる。
溶岩が冷えて固まる黒い玄武岩、噴火の火砕流が堆積した灰色の礫岩層。高濃度の鉄分が酸化し真っ赤に変色した赤色礫岩などなど、その層ひとつひとつの圧倒的な数百万年にもおよぶ時間の堆積を想うともう正気でいられない。大地・地殻変動の圧倒的エネルギーに埋没するには充分すぎる質量とその磁波を含めた巨大なパワーに囲まれたのだった。
ウオオッおおォ~ッ! ウオオッ〜〜!!
2017年9月1日金曜日
炎の向こう岸
シーカヤックやサバニで島々を航る旅においても、日々のほとんどは焚き火が基本。薪を拾い、火を熾して湯を沸かし飯を炊く。魚を焼き一汁をこしらえ空腹を満たし、そして茶で一息つく。残り火で暖をとりつつ、燃えゆく熾き火の清く美しい紅の色に、様々な想いと共に言葉なく魅入る。火が燃え尽きるころ残り湯で体を温め、そして星降る浜辺で潮騒の調べを夢枕に眠りに就く。
子供時代の河原の火遊びから、やがて小学56年生になる漂流旅生活のこの歳まで、外遊びの基本は常に焚き火と共に過ごしてきた。
湖の湖畔、中低山の沢や河原、そして海辺の砂浜や磯の大きな岩の上。幾度となく繰り返した焚き火の炎を眺め、あるとき確信したことがある。
炎の向こう岸……
「焚き火のむこうに、薪ストーブの炎が燃えている。」
2017年6月14日水曜日
無人島・ハミャ
奄美大島の南部・加計呂麻(カケロマ)の更なる南に、加計呂麻から見て右手に与路(ヨロ)島,左手に請(ウケ)島の二つの島がある。
国土地理院や海図には、加計呂麻島、与路島、請島とそれぞれ島という漢字が語尾に付けられているが、島の人々、特に老人たちは古くからカケロマ、ヨロ、ウケとしか呼ばない。
明治の手前・江戸時代の後期までは、奄美はまだ琉球國だった。
加計呂麻は琉球から見て、大島本島の手前にある大島の影のように寄り添っている島を意味する、カゲヌマ(影の島)が語源で、マ自体が島を表す。
慶良間諸島のケラマ、波照間のハテルマ、多良間のマ、そしてウルマのマしかり、古き琉球の言葉においてはマ自体が島を意味するので、ケラマ島、ハテルマ島、タラマ島、そしてカケロマ島という当て字は明治以降の日本政府が付け足した地図用表記語なのだ。〜と大正14年生まれの父・伊東賢夫(けんお)が生前、加計呂麻島という言葉を目にする度に「加計呂麻島という言い方はまちがい,カケロマが正しい呼び方!」と、諭すようにつぶやいていた。
そして、前記のヨロ、ウケの間に小さな無人島「ハミャ」がある。
その無人島は国土地理院や海図には、ハンミャ島と表記されているが、ハミャが正しく、いまでも近隣の島人たちはハミャと呼んでいる。
海図をひろげてハンミャと呼ぶ私に「ハンミャじゃないよネ、あの島はハミャといって、ヨロ、ウケの間(はざま)って意味なんだよ」と、諭す父の言葉を想い出す。
無人島「ハミャ」のまわりは潮の流れが強く、大潮の激潮・満干時はなんと4kn(ノット)の流速から70cm〜1mの潮目の段差が波うっている潮の難所でもある。4knとは、漕がずとも潮に乗れば1時間でな〜んもしないで7kmチョイ流されるということなのだ、ヒエェ〜〜。
とはいえ、毎年この激潮に乗り、われらシーカヤック乗りはこの楽園を目指す。
なぜって? そこは私たちにとっては,安易に人を寄せ付けない奄美に残された最後の「楽園」なのだから。
ことしも いくぞぉ〜〜〜〜 風吹く ハミャ へ!
2017年6月10日土曜日
酒瓶と骨壺
父の七回忌2006年・弔いの宴席用にと、11年前のカーチベ吹くこの季節に、琉球古酒の龍瓶と洗骨・改葬用の骨壺のふたつをサバニに載せ、沖縄から奄美までの荒海250kmを仲間たち3人と漕ぎ航った。
旅の途中、大島海峡入り口には、波高6m以上の外洋の巨大なウネリが次から次へと押し寄せており、その圧倒的な神々しくも崇高な世界を我等3人は何を恐れるでもなく、横風を帆に受けながら、ただひたすら北へ北へと4〜5時間のあいだエーク(櫂)をにぎりしめ、永遠と想える時を漕ぎ続けたのだった。
父の生まれ育った浜辺の墓地にて土葬に眠る父を2009年3月春・掘り起こし骨を拾い集め、浜辺にて兄と二人で洗い清め,母にあつらえてもらった絹の白衣を着せて家族全員で見守るなか荼毘に付し、遺骨を壷に収めなおして改葬の儀を行い、あらためて父を新たな安住の墓中へと眠らせたのである。
いまは同じ古郷の浜辺の墓地に,10年後の再会を夢見て屋形(やぎょう)の下に最愛の母が眠っている。
感謝
2017年5月23日火曜日
ヤドカリ ハウス Online SHOP Open!
Online SHOP Open!
なんと、わたし伊東孝志のお店・オンラインショップがオープンしました。屋号はこころの師匠に敬意を込め YADOKARI house・ヤドカリ ハウス と命名。
とりあえず 注染・手ぬぐい3種(ガジュマル2アイテム、サバニ3アイテム、ブーゲンビリア2アイテム)計7アイテムと、オフセット美術印刷プリント絵8枚(海風・蘇鉄夕景・山原船後姿・サバニ後姿・アダン幼実・赤岩と松・走る海老汁・山原船後姿)を額縁に収めて販売を始めました。
今後、月いち枚のペースで手ぬぐいの新作を発表する予定で制作を進行しています。乞うご期待!
とりあえず オンラインショップ・YADOKARI house 覗いてみてください。
そのうちアウトドアにちなんだ単行本や小冊子・漫画なども発刊して YADOKARI BOOKs・ヤドカリ ブックス として販売する予定なので、まったくフラフラ道草なんかやってる場合じゃないヨ!
もっと死ぬほど遊んで、どんどん作品を作らなきゃ!
みんな、今後とも よろしくね!
2017年5月22日月曜日
と〜と〜 トイレの神よ…
極悪法[共謀罪]を 三万光年かなたに!
某月某日、ラジオで[共謀罪]の国会採決を聞きながらデスクワークをしているふりをしていたら、パソコンのマウスまでが調子悪くなり、昼飯ついでに近くの某・家電量販店に立ち寄るハメになった。
2階のシロモノ家電コーナーは迷子になりそうなくらいダダッ広く、サングラスが欲しくなるほどの眩しいケイコー管ビッカビカ照明に、テレビやオーディオ・サンプル音に各家電メーカーのインフォメーション・デモモニターCM音や店内インフォメーションなどなど、まるでどこかのパチンコ屋のような猥雑音に溢れていた。
小学3年生の夏休みに初めて電気が通じ、夕方5時から夜9時までの4時間のみ文明の灯・白熱電球40wを眩しがっていた奄美・加計呂麻原人にとって、この猥雑音の中は5分もいると精神錯乱一歩手前のココハドコ?状態なのである。それにしても「共謀罪」採決、ひどいはなしである。ここは法治国家か、ニッポンか?〜などと違う事を考えていたら、一緒に買い物に来たはずのカミさんと娘のふたりは、どこにいったか広い店内で はぐれてしまった。
出口の階段手前にて、脱走寸前の加計呂麻原人の目に飛び込んできたのは、白いウォシュレットのサンプル・モデル。フラッと近づいたら「はいどうぞ!」とばかりに、勝手にトイレカバーが開くではないか!
誰かがこっそり遠隔操作で開けたのかと周りを見回してもそんな様子はまったく無い。
それではと買う気はサラサラ無いが、ソ〜ッと恐る恐る座ってみた。
するとズボンをはいたまま便器に座ると,そのままウンコをしそうで不安な気持ちになり、はいているズボンに違和感をおぼえる。そこで、ソ〜ッとズボンをおろし、パンツいっちょで座ってみた。
ん〜〜やはりパンツもほんの少し違和感がある……と、そこへクスクス笑う娘がスマホをこちらに向け「カシャッ!」
と〜と〜決定的瞬間を撮られてしまった。
よい子のみなさん、決してマネはしないように。世が世なら
そのうち、共謀罪や治安維持法でしょっぴかれるからね!
〜という「悪い夢」を見た。
共謀罪とアベシン ゾォ~は 天誅だッ!
2017年5月21日日曜日
バックパッキング
テントと小さなタープ、そして大中小の細引きを数本とコンパクトな十徳ナイフ(スイスアーミーナイフ)をひとつ。寒さに備えた重ね着用長袖シャツ長ズボン、そして替えの下着と靴下とウインドブレーカー兼レインウエアをワンセット。ホーローカップと小さなケトル、そして一人用のクッキング道具と食料を少し。ダウン・シュラフに小さめのエアーマットを丸め、地形マップとコンパスの諸々をザックにコンパクトに詰め込み、夜明けと共に我が家をひとり静かに出発し地図の目的地を目指す。
朝陽に祝福されたきみは最終駅に降り立つまでの数時間、地図を眺めてはまだ見ぬ渓谷や大自然の雄大な景色に想いを馳せ、昨夜の旅のプランニングを意識の中で確認しながら、車窓に流れ去るいつもの見慣れた街遠くに輝く太陽を眺めることだろう。
はじめてのバックパッキングなら標高1500~2000m級の中低山を目指すといい。清流添いの里山をぬけ細い山道の渓谷を通り、陽光降り注ぐミズナラ林の登山道を地図を片手にマイペースでその日の目的地・キャンプサイトへとたどり着く。そうそう、山道や登山道を歩く時には背丈とおなじ長さで親指の根元くらいの太さの木の枝か丈夫な竹の杖(つえ)を拾い、旅の終わりまでお共にするといい。凸凹のガレ場や河原を歩くのに杖として安定するし、キャンプの時にはタープの支柱や物干竿として、森林限界域においては細かくして小さな焚き火に。また時には身を守る防具にだってなるからして原野を歩く者は1本の棒切れをつねに担ぐのである。
渓谷の河原の片隅でテントを設営し、夜の帳(とばり)が下りてくる頃にちいさな焚き火を熾し湯をわかす。温かい飲み物をとりながら簡単な夕飯をすませる。焚き火横に寝転び見上げると暗闇の谷間に星空が輝いていた。焚き火の炎をながめつつ燃えゆく熾き火の美しさに見入れば、遠くのフクロウの鳴き声を夢枕に、歩き疲れた疲労感が深い眠りへと誘ってくれる。
小鳥のさえずり、そして渓谷のせせらぎの音に目覚め、ファスナーを開けテントの外へ出る。朝霧が覆っている河原に山の端から朝日が差し込んで水面がキラキラ輝いている。大あくびをしてからだ全体の筋肉を伸ばしながら、さぁ~て、今日はあの山の頂上を目指すぞ!
そんなこんなで大自然の懐を旅する時には一人旅をおすすめする。
なぜなら初めて見る渓谷や山岳の原野の中では、チョットした探検の喜びと冒険のスリルに満ちあふれているし、なにはともあれ一人旅には、マイペースという自分自身の時間軸で全ての事が進められ決断するという「自由な時」が存在しているのだ。
衣・食・住の最低限の道具を背に担ぎ、自分の時間と自分の足で歩き、陽に照らされ、風に吹かれ、雨に打たれてもなお己の汗と筋肉の力で山の頂きに立ちつくし、その雄大な景色を体験すれば、人みなそれなりに生きる喜びを実感できるものだ。
そんなたった一人のバックパッキングの旅を数日過ごしてみれば、帰りの電車の中には数日前のきみではなく、自由な時とともにほんの少し一人前に成長したきみが、車窓に流れるいつもの見慣れた街の遠くに、あの山の頂きで見つめた真っ赤に輝く夕陽を眺めることだろう。
真実は旅にあり 知る事のよろこび
2017年5月10日水曜日
サバニ 風と波
サバニを描く。
幾つかのサバニ旅を通して多くの風と波を越えてきた。
ときに高波6mの巨大な外洋のウネリを3人で4~5時間ただひたすら漕ぎ続けた。また沖縄・本部港から宮崎・日南の油津港840kmの旅の途中、奄美大 島・大和村今里から方位・北北西60kmにある横当島・東方20km沖を、右舷45度に転舵しさらなる北東40km彼方の宝島を目指した。
風速13~14mの横風のなか、左舷から押し寄せる高波4~5mの波頭崩れる荒海の中、30秒ごとに左舷アウトリガーを越えた大波が船内に飛び込んで来 る。排水を繰り返しながらの全航程104kmの奄美~宝島間8時間半のサバニ旅は、宝島手前5km沖の真後ろの風を受けた瞬間14ノット・ kn強(時速 25,7km)を記録し、波と波の間をまさに飛んでいる状態だった。
サバニの向こうに越えてきた波を描く。
舟底あたりに2mの波、舟の舳先まわりに4mの波頭崩れる荒波を、そして弥帆(やほ・舳先の帆)上部向こうに右舷にせり上がる6mの外洋うねりの巨大な高波を。
サバニ・レースと島々を航るサバニ旅を幾つかくりかえし、これまで延べ3,000余kmの海を航り継いだ15年目にしてやっと、理想のサバニの姿を描くことができた。
それを[手ぬぐい ]に染め込み 新たな サバニ旅 へと 船出する。
我は 琉球王国・海洋民族の末裔なり
2017年1月20日金曜日
「ガジュマル」の樹
私は62年前の昭和30年に奄美大島の名瀬市(現・奄美市名瀬)に生まれた。
父と母の故郷、奄美の南部・瀬戸内町、加計呂麻の西阿室集落に一本のガジュマルの樹がある。
私が幼いとき、この樹の一番下の龍の姿をした大きな枝には手作りのブランコが架けてあり、5〜6人の子供たちがいつも取り合って遊んでいた。
幼い子供たちにとって地上2mの高さから揺れるブランコは充分な高さであり、足下にある幅・深さ30cmほどの側溝を揺られながら越えるちょっとしたスリルに満ちていた。
樹のたもとで、なつかしそうに見上げながら 母 曰く、
「母ちゃんが子供の時からこの樹はこの大きさだったよ…」
今からさかのぼること500余年前・江戸時代初期の薩摩藩支配が始まる1600年頃まで沖縄と奄美の島々は「琉球國」という那覇・首里の尚家を国王とするひとつの小国家だった。
当時の琉球は、タイ・カンボジアやマラッカ、フィリピン、そして明朝時代の中国や韓国・朝鮮、そして倭国・日本など近隣諸国との交易を中心とした海洋貿易国として繁栄していた。
アジアの諸外国をはじめ遠くヨーロッパの国々からも「蓬萊国・ほうらいこく」として憧れられていた王国時代の琉球は「戦い」を否定し、易きことを互いに分かち合う「交易」を尊重し合い、王家を中心に万民に至るまで豊かな海洋交易社会を謳歌していたのだった。
その社会の根幹には、ティダ(太陽)神とニライカナイ(海の彼方より幸せを運んでくる海来神)を信仰する、自然崇拝の神々と共に暮らす祈りの日々が存在していた。
集落のほとんどは海辺にあり、その集落形成には神々が宿る多くの祈りの場所「立神・タチガミ」「拝山・ウガミヤマ」そしてガジュマルの巨木が立つ「拝所・ウガンジョ」の三カ所が定められていた。
ニライカナイの神が最初に降り立つ場所として集落の海岸もしくは磯場にある大きな岩や小島を「立神」と呼び、朝に夕に日々崇めていた。「立神」に降り立った神は近くの岬を通り集落裏山の「拝山」を介し、集落中心の「拝所」に降りてくるのであり、その際の広場への降臨目印として「ガジュマル」の樹が存在していたのだ。
ガジュマルは「神の宿る樹」として大切にされ、一本の枝さえも人の手で切ることは許されなかった。その巨樹の下に人々は集い、祈りや祝いの宴の時には陽射しから大きな木陰をつくり、雨風をさえぎり、台風の荒れ狂う強風を和らげる役目をも担っていた。
巨樹老木「ガジュマル」の姿は、永き時を有するものに対して畏敬の念をいだくことを教え、それは海洋性集落社会において歳を重ねた老齢者を敬い崇め大切にする「学び」 として存在していたのである。
美しき琉球よ 永遠なれ